はじめに・・・ 思い出すことなど・・・創作の周辺・・・物語・・・


パソコン通信日記 

2012年度

4月1日(日) 天候 晴れ 時々 くもり

 先日からこのウェブページをどうするか悶々と悩んでいた。書いていきたいという気持ちがあるのだが、ただやみくもに書けばいいというものでもない。やはり、なにかテーマらしき絞り込みして趣旨をはっきりさせないと、ついだらだらと書いただけのことで終わりそうになってしまう。とはいえ、こちらの興味対象は文学、詩にとどまらず多岐にわたる好奇心で、はたしてテーマを絞って書けるかどうか自信があるというわけでもない。とにかくこのページをスタートしなければなにもはじまらないという焦りがつのる一方であった。
 先月、ふとしたことで近所の病院へ入院するはめになり、正確には2月28日(火)から3月12日(月)まで、退院したものの三日後、あろうことか癒着の症状が出て再入院となり、再手術を経て3月26日(月)まで約25日間ほど我が身を拘束された。そのとき、ベッドで暇をもてあまし、善意の本棚にある本をなん冊か手元によせて読み、気を紛らわせたりした。
 ただでさえ、病室のベッドでの寝起きはなんともいえないほど心細いものだ。そんなとき、小説の世界に浸ることがどれほど心の支えになることか、これは入院した者でないとわからないことだろう。

 フランツ・カフカの作品をはじめて読んだのは、いまから50年ほど前(昭和37年)、つまり中学1年生か2年生のときだった。教室の突き当たりに図書室があり、そこから偶然見つけ出したのである。タイトルは「変身」とあった。じつはカフカがその名を知られるようになったのは、ほかならぬこの「変身」という短い物語のおかげである。この奇妙なタイトルが、のちのち心の片隅にはびこり巣くい、自分もいつかこのような恐ろしい「変身」が起きるのではないかと内心不安な日々を過ごしたことが思い出される。それは現実と虚構、夢などとはっきり区別する精神力を持たなかった幼さと無知のせいでもあった。つまり外の世界に対するものの見方がまだ未熟だったためである。家庭的に恵まれなかったためか、早くから読書することを覚えてしまい、つまるところ現実逃避が唯一の救いの道のりでもあった。本のなかの世界にすっかり魅せられてしまったのである。 

 カフカの作品の特徴は小説、物語というより、なにか夢の世界へ誘い込まれるような、また知らず知らずに夢の入り口に案内されて、読み手もまたいつしかその夢のなかで迷路に閉じこめられていることに気づき、恐怖を覚えてしまうという不思議な世界に入ることになる。怖い夢からいつも脱出できず、必死にもがいているような苦痛に身もだえながら、それでもなお、その行間から逃れられない、目をそらすことができない吸引力に縛られて閉じこめられてしまう出口のない物語に放り込まれてしまうのである。
 災いを恐れる者は恐れるあまりなお災いを呼び寄せる…2月29日(水)の午後、窓の外が暗くなる頃、ストレッチャーで押されて病室にもどった。そして、とうとうおそれていた「変身」が現実のものとなった。50年もの歳月を経て、わたしは「変身」を自分自身のものとした。信じられないことに、この短い物語は決して他人のためにあったのではなく、わたしのために書かれた物語だったのである。フランツ・カフカ、なんたる恐れ多い予言者なのだろう…わたしもまたザムザの分身だったのである。
 カフカの短編に「掟の門」というのがある。男が門に入れてくれと頼むが門番は「いまはだめだ」と答える。門は開いたままだが、男はしかたなく、待つ。しかし、いくら待っても自分以外誰もやってこない。最期に門番が門を閉めながらいう、この門はおまえのための門であって、他の誰の門でもないと…門の前で男は息絶え絶えに意識を失っていく。カフカらしい隠喩を含ませた物語である。
 病室のベッドで、なんどか夢を見たように思う。目覚めるたびに、このいま見た夢をなんとか正確に捕獲できないかと本気で考えたものである。もし、可能なら、当方はすぐさま小説家の仲間入りができると思ったほどである。もし、夢を正確に記憶し、そして記録できるなら、あなたもカフカのような小説家になれると。
 団欒室にある善意の本棚から持ってきた本は厚みがあり装丁もしっかりした世界文学全集の1冊で、河出書房新社の「カフカ/サルトル」という翻訳ものである。初版は昭和43年とあり、当時、高校を卒業した頃である。カフカの「城」「変身」サルトルの「水入らず」「部屋」などの小説が収められている。
 サルトルについては学生の頃、片っ端から小難しい本を読んでいたとき、しぜんにいきついた作家の名前だった。あとで知ったが、サルトルは1966年9月にボーヴォワールと共に来日したことで新聞などで記事が載ったため広く知れ渡ることとなったらしい。当時、高校2年生である。学生になって、哲学というと実存主義が学生間では密かな人気、ちょっとしたブームとなっていたのである。当方もすぐ飛びついて人文書院からサルトル全集が出ていて、梅田の阪急3番街の地下の紀伊国屋書店で「存在と無」松浪信三郎訳を3冊買い込んで夢中で読んだ。が、こちらの知識不足のせいか読んでもさっぱりわからなかったというのがほんとうである。そのあとフロイトの精神分析などの著作へと移り、そのなかで「夢判断」を読んだりした。そしてフロイト亡き後、彼の弟子たちの系譜で新フロイト学派、フロイト左派といわれたエーリッヒ・フロムの「自由から逃走」1941年、日高六郎訳、初版、昭和26年、当方の書籍は昭和46年とあるから22歳のとき出会ったことになる。フロムは哲学界で当時人気のあったサルトルを評価していないようだった。フロムの主張は常にきびしく、自身の態度もはっきりしている。その主張に納得できるものがあり、その著述を読み進めていくうちに、はっきりと目的意識を持つことができたといってもいいほど彼の持論に吸い込まれていった。それは社会学という当時としてはまだ比較的新しい名前であり学部だった。また広範囲の社会現象をひとつにまとめようとする総合的な学問だったのである。フロイトの持つ、精神分析を個人の対象枠から社会体制にまで広げて適用しょうとする新しい試み、また新しい運動だったのである。彼の著作「正気の社会」加藤正明訳(1955年)は社会体制にも病理的な社会が存在するといっている。社会全体が病理に冒されているため、自覚症状さえないというのである。
 その後、彼の著作、翻訳ものはほとんど読破した。そして、なんども読み返して彼の主張を理解し、さらに思索を深めた。それは彼の文章が、もちろん訳本(日高六郎)の出来がよかったこともあるが、彼独特なわかりやすい語り口のおかげであった。以後、社会という大きな体制をみるときの「物差し」はことあるごとに彼の基本的な理論をあてはめるというやり方となった。いまでも当方の精神的な、あるいは人生の指針であり師である。

4月2日(月) 天候 快晴

 外科病棟6階の病室から自由の身となり、退院してまだほんの一週間ほどしか経ていない。あの苦痛にみちた入院生活がまるで一瞬、夢をみたかのようなおぼろげな感覚しかよみがえってこない。たったこの間まで、そこのベッドに縛り付けられて長い苦悶に打ちひしがれていたことが遠い過去の出来事のように感じられる。短い、太陽の陽光が東から西へほんのちょっと傾いたという程度の、ほんの短い間、思いもよらぬ悪夢の旅をしたという感覚である。そして、ふと思い出したのは、学生のとき、偶然読んだ、あの小説である。いまでも忘れることができない作品で、題名は「いのちの初夜」北條民雄(1914-1937)である。若くしてハンセン病を発症し、そのとき癩(ライ)病院、隔離病院へ入院するときの様子を書いたものである。ひじょうに衝撃的な物語だった。主人公のモノローグはずっしり重かった。その若くして過酷な運命を体験した感性のほとばしる文章に感動してつい目頭が熱くなったという記憶がある。入院するものは一度は彼の著作を読むべきだと思ったほどである。
 入院中、こちらの出来る自由とは、3度の食事、ベッドで好きなときに眠ること、棟内を散歩すること、TVにイヤホンをつけて視聴すること、ネットでサイトをクリックすること、あとはただぼーっと無為に過ごすことぐらいだった。起床はいつも午前7時前、検温で起こされる。午後8時面会終了、午後9時消灯である。毎晩、消灯後もいくら時間が経ってもいっこうに眠られず、ネットのYouTubeからイヤホンでピアノ曲を聴いたりした。4人の相部屋にもかかわらず、病人がベッドで自分自身を繭のなかに閉じこめて、無口になる。こういう孤独な夜にふさわしい曲といえば、いわずと知れた希有の天才グレン・グールド(1932-1982)のJ.S.Bach「パルティータ1番〜6番」(CBSソニー1960)である。これほどこういう環境にぴったりした曲はほかにないと思われるほど、孤独な夜をやさしく慰めてくれる曲である。最初に聴いたのは、もうずいぶん前で、宝塚市内、逆瀬川、野上(1972-1973年)で下宿しているときである。駅前のレコード店で見つけて購入した。LP版で2枚組である。値段は5千円だった。再生機器はデンオンのダイレクトプレーヤーに、同じくデンオンのトーンアームを付けて、針はオルトフォンのMCカートリッジSL15E-MKU、これにMC昇圧トランスを接続して鳴らしたのである。スピーカーはフォステクス、16センチフルレンジ、エンクロージャーは密閉型、あるいはオーディオ・テクニカ、オープンヘッドホン。聴いたりしていたころは、いつも真夜中だったのでヘッドホンで難聴になるほど繰り返し聴いたものだ。そのあとほんとうに難聴となり、いまでも両耳は聞こえにくい。グレン・グールドのあの演奏中の恐ろしいほどの孤独感がヘッドホンを通してひしひしと伝わってきて圧巻だった。後年、CDに焼き直されて聴いたとき、もうあの孤独感はCDゆえに雑音としてカットされてしまい、かすかさえみじんも感じられなかったのである。以来、CDで音楽を聴く楽しみはじょじょに遠ざかっていった。彼については「GLENN GOULD Music&Mind」ジェフリー・ペイザント著、木村英二訳(1981年)に詳しく書かれている。同時代に「メディアはメッセージである」だったか、また「水平思考」という本を出して日本国内でも一躍有名になったカナダの学者マーシャル・マクルーハン(1911-1980)とも面識があり、彼の理論を披瀝したことがある。のちにグレン・グールドはトロント大学の名誉学位を授与された。なお「水平思考」1969(NEW THINK)というネーミングはエドワード・デ・ボノ博士が提唱したニューシンキンクの思考方法のひとつである。当時、高校3年生だったが、友人同士の会話でも「水平思考」という文句が無造作にぽんぽん出てきたくらいだから、当時はかなり、いや相当に有名だったのである。
 次に本棚から持ってきたのは大谷晃一著「大阪学」新潮文庫(1994)である。著者の大谷晃一(1923-)は帝塚山学院大学の元学長である。大阪人の特徴を列挙し、在学生がフィールドワークで実証するという内容となっている。大阪はもともと町人の街なので、ものごとを損得勘定ではかるというのが一般的な見方、価値判断、あるいは全般的な性格とされているようである。身分社会というより町人の街なので人間関係は横糸のように平べったく広がっている。しかも商売人なので他人に対する思いやりもじゅうぶん持ち合わせている。対する東京は江戸からつづく武士の街であるから、縦社会となり、人に弱みをみせない強がり、威張り、あるいは成り上がりのハッタリ的な上下の人間関係となる。東京の人間が他人に対して冷たくうつるのは、他人を蹴落とさないと生きていけない武士社会という背景、風土にある。 などなど、さらっと読み通してみただけだが、この中で作者は大阪出身の作家を何人か紹介してあるので、ついでに当方の独断でオマケ的に取り上げてみることにする。

 江戸のはじめの頃、活躍した井原西鶴、「好色一代男」がある。当方も学生のとき講義のテキストで読んだりした。いま風にいうとポルノ小説といってもいい。主人公、世之介がナンパした話の数々。当時の男衆の理想像であったそうな。もう、びっくり。クラスの半分以上が女子学生だったので、講師が読んでいくとだんだん恥ずかしくなって、こんなエロみたいな作品をよくもテキストにしたものだと半分あきれかえった。さらに学生に朗読させたりしたものだから、顔を赤らめて読み上げたことなど思い出す。女子学生はテキストで顔を隠すようにしてこそっと笑っていた。その他、川端康成、織田作之助、小田実(1932-2007)、彼は当時、ベトナム戦争勃発後、平和運動、「べ平連」を立ち上げたことで有名になったが、当方は高校生のとき、ベストセラーとなった「何でも見てやろう」(1961年)という本を読んで知った。 高橋和巳(1931-1971)学生のとき「自立の思想」「孤立無援の思想」という本を読んだ。ひじょうに正直な、自身に厳しい作家という印象がある。ゆえに当時、学生の間では人気があったように思う。高村薫(1953-)、この女流作家の成り立ちがおもしろい。たしか商社勤めをしていたらしいが、あるときパソコン、たぶんNECの9801を手に入れて、ワープロ「一太郎」で遊んでいたら小説ができ上がったというシンデレラのような話なのである。作品は読んだことはないが推理作家らしく事件のたびに新聞紙上でコメントが載るほど推理好きである。稲垣足穂(1900-1977)当方が大阪の本町で広告代理店に勤務(1972)しているとき、週刊アサヒグラフの誌面最後の今夜の夕飯というページに、今夜のおかず、「ビール」。座卓にビール瓶だけが置いてある。堂々とその写真が載っていて、よほどビールが好きなんだなと、また大物風の作家というのが印象だった。作品は読むには読んだが、忘れてしまった。筒井康隆(1934-)学生のとき「ベトナム観光公社」というSF短編を読んだ。ナンセンス風の作品でおもしろかったが、のちに本国のベトナムから読者に誤解を与えるという理由からか抗議を受けて廃版となった経緯がある。以後、お蔵入りとなり、完全に作品が抹消された。これは当人にとってみれば屈辱的な事件だったろう。その後の絶筆宣言は衝撃的だった。梶井基次郎(1901-1932)学生のとき「檸檬」「櫻の木の下には」など短編を読んで気に入った作品となった。小松左京(1931-2011)SF小説「日本沈没」(1973)がベストセラーとなり、さらに映画化されて、いっぺんに有名作家の仲間入りをした。何編か読んだが記憶にない。五味康祐(1921-1980)学生のときなにかの占い本で知った。その後、数年前、尾道の調味料製造会社の会長さんがステレオ・マニアで彼の「西方の音」という本を貸してくれたので読んだ。音響マニアというが、マニアを超えた専門家顔負けの知識に唖然としてしまった。司馬遼太郎(1923-1996)毎日新聞大阪本社でバイトしているとき、バイトの2歳年上のSさんが彼のところへ遊びに連れて行ってやるとかいって、そのまま連れて行ってもらえなかったという思い出がある。眉村卓(1934-)SF作家、学生のとき短編を読んだが、作品の名前が思い出せない。当方が広告代理店でコピーライターをしていたとき、他社のライターから、この作家が大阪大手のコピーライター出身だというのを教えてもらった覚えがある。庄野潤三(1921-2009)学生のとき、芥川賞作品「プールサイドの小景」(1955)を読んだが内容がぜんぜん思い出せない。

 最後に岡田斗司夫(1958-)現在、週刊アスキーで「ま、金ならあるし」を連載中、買ったときだけ読んでいる。エッセーというか軽い読み物といった感じだ。彼は大阪電気通信大学出身だが、当方もその昔、受験しょうとした。が、高三のときの担任からおまえの成績では無理とむげに言われた。それくらい当方は勉強が嫌いだったのである。翌年、アマチュア無線の試験をこの大阪電気通信大学内で受けた。当時、神戸東灘区に下宿していて、試験結果が届いたのかどうかさえわからなかった。
  同じく本棚から取ってきたのは畑村洋太郎著「失敗学のすすめ」講談社文庫(2005年)である。元は2000年に単行本として発行されたものである。原発事故などのニュースを見ているとこの著者がTVに出て、インタビューを受けている場面を何度か見た。歴史的な過去の事故事例を検証して反省材料として失敗から学び、さらなる前向きな先手を打つことができると教えた画期的な内容である。そのひとつ、第二次大戦中のアメリカの輸送船の破壊沈没事故について。2つ目、イギリスのデハビランド社が製造したコメット機による墜落事故について。3つ目、1940年のアメリカの吊り橋、タコマ橋の崩落事故について、など中心に、原因を徹底的に調べ上げ、その後の技術に大きく貢献し、避けて通れない不可欠の事故だったと解説してある。書店のコーナーへいくと「成功」なになに、「成功」なにがし云々と記したタイトルはあふれるほどあるが、そのような本は読まなくてもだいたい内容的に役立たないことはすぐわかる。そんな本をわざわざ金をはたいてまで読みたいと思わないが、この本は違う。我々が学ぶのは失敗からである。いうなれば、影を見て陽を知るという方法なのである。

4月3日(火) 天候 春嵐、春雷、強風が吹き荒れる

 その昔、一時期、熱に浮かされたように夢中になって自分なりに勉強したことが、さいきんになって思い出された。もちろん、当時は4年生の編入学の試験をひかえていたこともあるのだが、それが縁となって学習することの必要性と自分に適した学習のあり方など、いま振り返ると貧弱ではあったと感ずるが自分なりに勉強方法を考えたように思う。だいたいふつう学業を卒業するとたいていは勉強することに見向きもしなくなる傾向が強い。社会人となれば当然仕事に追われ、それだけで手一杯になってしまうのが常である。当方はアルバイトを続けながら、参考書を買い込み細々とあきらめることなく学習を続けた。めざす専攻は社会学だったので、休みの日に、梅田の阪急三番街の地下、紀伊国屋書店で、その手の書籍を片っ端から購入したりした。当時、関西の大学で社会学部が設置されていたのは、関大、関学、桃山、追手門、同志社、立命などだった。そのとき学習した書籍を参考までに挙げてみたい。
 古くはテンニース著、「ゲマインシャフトとゲセルシャフト」社会学の古典として、また入門書としてだけでなく広く読まれた書物である。自然発生的共同体から組織された人間関係へ、または村落から都市へ、というような、ここ100年間、産業革命以後、人間を取り巻く社会環境が大きく変化した。地域集団、生活環境の流れの変化、その流れを類型に分けることで方向性を見いだそうとした。社会における人間の発展と変化についての予想でもあった。もちろん、現代ではゲセルシャフト化された集団類型と位置づけられる。概念としては共同体の「本質意志」から「選択意志」への変化を示そうたした。フェルディナント・テンニースはドイツの社会学者(1855-1936)である。
 エミール・.デュルケーム(1858-1917)フランスの社会学者。
 のちの画家、岡本太郎のフランス留学時代の先生ということらしかった。
 レヴィ=ストロース(1908-2009)フランスの社会人類学者。
 ルース・ベネディクト(1887-1948)アメリカの文化人類学者著「菊と刀」、第二次大戦中に発表された日本文化論、アメリカ人が論評したはじめての日本に対する文化論で、フィールドワークで得た研究成果ではないため、正確さに欠けるという指摘がある。主にアメリカ在住の日系二世などから情報収集した可能性がある。当時、日本という国、もしくは文化が海外からどのように見られていたか、客観的視野に立ってみることができる。
 デビッド・リースマン(1909-2002)アメリカの社会学者、シカゴ大学、ハーバード大学の元教授。代表的著作「孤独な群衆」は有名である。今日のアメリカ社会を社会的性格という分類法を用いた。
 ルイス・マンフォード(1895-1990)文明批評家、アメリカの大学教授を歴任。1967年「機械の神話1・技術と人類の発達」1970年「機械の神話2・権力のペンタゴン」はあまりにも有名な著作である。 
 エーリッヒ・フロム(1900-1980)ドイツの社会心理学者、
 ジークムント・フロイト(1856-1939)精神分析の創始者。
 カール・マルクス(1818-1883)今世紀最大の思想家。
 社会学(第2版)有斐閣双書(1965)昭和40年初版、2版は54年。当時、当方が勉強した教養課程のテキストである。社会学は経済学にはじまり、広範囲でさまざまな角度から社会全体について相互関係を取り扱う。テキストに沿って要約または解釈してみたい。
 1・社会の構造
 社会の意味
 社会を意味づけるもの、社会とは、ある集団、制度のなかで自足性や統一性をもった全体をいう。そこには民族を基盤として経済上、政治上、文化上の成り立ち、お互い共同の生活をしながら日々再生産を行う。
共同の社会とは、
1・経済的には自然的、技術的その他の条件もとで生産し、分業と交換など相互に依存しながら全体的な規模で再生産を行うこと。
2・政治的には国家の統制のもとでの国民生活がある。文化的には、共通の基盤があり伝統や生活様式、価値体系に守られながら行動規範に従う生活である。
全体社会をみる学説について、
有機的社会観、社会有機体論、コントスペンサーは自然の生物学と似た生命をもった、あるいは社会を生物になぞらえ、有機的秩序の成立があり、社会は分業にもとづく協業の原理が働く集団、社会ということになる。
もうひとつ、機能主義としての社会観について、
マリノフスキーによる「制度
による社会共同生活の成立。各諸制度が組み合わさり社会を構成し制度が社会を保証するという考え方。各分野、経済、政治、規範、親族、教育などの制度の複合化による社会の機能を重視する立場。
コント(1798-1857、仏)社会学の父といわれ、実証主義の祖でもある。
スペンサー(1820-1903、英)イギリス社会学の創始者。
マリノフスキー(1884-1942、英)人類学に機能主義を持ち込んだ。

パーソンズの社会体系論について、
役割の制度化を中心に社会の構造や統合、または均衡を追求した。
パーソンズ(1902-1979 米)アメリカの代表的社会学者
マルクス主義の立場
マルクス主義の社会観
マルクスが目をつけたのは、自然との関係だけでなく、人間同士の力関係にも目を向けた。すなわち社会関係、それは生産関係に置き換えることもできる。しかも生産力と生産関係にも言及し、生産様式と呼ばれる。社会構成体は生産関係の総体を下部構造と位置づけ、その上に法律、政治など制度、宗教、道徳、哲学を置いて上部構造とした。社会構成体はこれらの下部構造と上部構造の統一、つまり総体である。





 2・社会の変動
構造と変動
 3・現代の社会
 4・職業と経営
 5・階級と階層
 6・民族と国家
 7・集団と組織
 8・都市と農村
 9・家と家族
10・職場集団
11・文化と制度
12・イデオロギーと社会心理
13・世論とマス・コミュニケーション
14・社会病理と社会福祉
15・人間と行為
16・社会学と社会調査

4月4日(水) 晴れ 風が収まっていない 

 茶話−先日、近くの古本屋で偶然「ティファニーで朝食を」(Breakfast at Tiffany's)見つけてつい買ってしまった。週になん回か近所、もしくは2号線沿いの本屋、古本屋へいき、脳を活性化させるため、いや、単なる頭の体操のつもりなのだが、速読の練習と称して書棚の本のタイトルと著者をすばやく目で読み取るのである。これは集中力をつける練習にもなることがわかった。コツは一瞬で書棚の背表紙をいっきに読み流すのがいい。1秒間で3〜5タイトル見極めることができればかなりの本のタイトルが頭に入ることになる。そして気になったタイトルもしくは著者があるとじっさいに手にとってみるのである。そのひっぱりだした本は装丁もきれいでとても古本には見えなかった。それもそのはず村上春樹訳で新訳(2008年)ものだったのである。初版は、1958年ごろに出版された。初出は新潮文庫、滝口直太朗訳は1968年ごろである。映画の方は1961年ごろに上映された。小説より映画の方を覚えている人がほとんどではないかと思うが。じっさい読んでみると、軽いというか読みやすい。もっとも時代背景的には1958年ごろだからひと昔前の感がある。とはいえ、アメリカの小説とはこんなものかと感心した。翻訳がうまいせいだろうか、違和感がなく、すっと物語がしぜんに始まる感じだ。気負いがなく、肩の力が抜けている。読者をつかむこの呼吸はもう名人芸の領域だろう。小説を書くとき一番むずかしいのはしょっぱなの文体であると昔からよく言われている。最初の一行で勝負が決まるといっていい。まさに真剣勝負である。創作の上では最初の一行がすんなり決まれば、あとは比較的楽なのだそうだ。その最初の1行で作者は読者を引きつけるあらゆる努力をし、その結果途方もない労力を強いられるのである。書くということがいかにたいへんな作業かわかるというものだ。脳に蓄えてある記憶という引き出しから、あらゆる例を持ち出し、そこの一行に全神経を集中し表してみる。ほとんど感覚、センスということになるかもしれないが、納得がいく文章がおさまればいいのだが、そうすんなりとは出てきてはくれないのだ。そこで頼るのは自身の発想である。唯一無二のものでなければならないから、どこかで見たり聞いたりしたようなことでは使えない。まったく新しい表現でなければならない。
 去年の秋ごろ、尾道の高須、旧2号線沿いに古い知人が勤めている古本屋がある。仕事で店の前を通るときなど時間が許せば、店内に入って、書籍を物色することもある。まあ、たまに立ち寄ってみるくらいなのだが。いつだったか、たまたまそこで見つけた「脳力」日記帳という東北大学の医学博士の先生が作った本をつい買ってしまった。これは脳を鍛えるトレーニング用の日記の書き方という内容であった。が、脳の働きはふつうに生活していれば、ある程度健康的に維持されて問題ないはずである。別に脳を鍛えるという理由でなくても、ふつうに日記を付けたり、考えたりするだけで、脳は適当に刺激を受けて機能していると思うのだが、先生に言わせると考えるだけでは脳は働いていないに等しいといい、エンピツなりペンを持って書き付けることで脳は格段活発化するというのである。なにか動作というか他の神経と結びつくとか、連動しないかぎり脳は記憶する力が弱いのかもしれない。必ず、なにか行動が伴うようなやり方をすれば効果が上がるということらしい。あとは日記をキーボードで打つか、ペンで書くかという違いがあるくらいで気にすることもなさそうである。できれば一方といわず、どちらも使用するのがいいと思う。先生の脳の鍛え方の例をあげてみると、
 ・朝の時間にものごとをやる。脳は起きて時間経つとどんどん消耗していくらしい。だから大切な用事は朝のうちに脳が元気なうちに済ませるのがいい。
 ・食事は3食きっちり摂取する。脳はブドウ糖を必要とし、食事を抜いたりするととたんブドウ糖が不足するようになる。栄養の摂取は基本である。
 ・テレビとかビデオなどは見ている段階で血流が下がるので、脳は働かなくなる。ただし、疲れたときにはこういう映像が逆に脳を休める役目を果たすので、脳を休めるときと決めて見るのがいいらしい。
 ・笑うというのが脳には意外と刺激になっていいらしい。バカ笑いなどするとあきれ顔で見られるが脳にとっては前頭葉を活躍させるのでいいという。
 ・毎日の生活が同じハターンだと脳はだんだん怠けぐせがつくというか、機能が落ちていく。そこで、あえて違ったやり方をしたりして脳に新しい刺激を与えてやるのがいい。脳は新しいことをやりたいと期待しているところがある。
 ・人との会話が脳を全体的に活性化させることになるという。
当方がよく無駄話をするが、先生の論調だと、あれはそれほど無駄というわけでもなさそうだ。これからは大いに無駄話をすることにしょう。

 話を元に戻すが、そういうことで脳をガラクタのように老朽化させないためにも「日記」はやはり続けるのがいい方法なのだということがよくわかったと思う。出来ればワープロだけに頼るのではなく、ノートにペンで書きつづるのも必要である。


 
「発想法」川喜多二郎(1920−2009)、創造性開発のために(昭和42年)

 初版は昭和42年である。当方が大阪毎日新聞本社へバイトしているとき、知り合った京都大学のSさんから勧められて読んだ本である。ということだから昭和46年から47年ごろだろうと思われる。本の内容とは関係なく、当方もこのやり方を参考にしてノートに書いたりしているのである。もともとは著者の研究、野外活動、フィールドワークから得たノウハウをまとめたもののようである。当時、発想に関する方はきわめて少なかったように記憶しているが、当方の狭い読書体験では、この本以外で発想を助けるような本はなかったように思っている。



4月5日(木) 天候 くもり 時々 晴れ 風がつづいている

 その昔、毎週決まって目を通していた週刊朝日に「私の文章修行」(昭和53年1月〜12月)というのが連載されたことがある。現役作家たちが天上の雲のような、つかみ所のない「文章」をいかに自分のものにしたかという体験談である。52人のよく知られた作家が思い思いにどうやって会得したか体験を綴っている。とうぜん書くことの秘訣が暴露されたかと期待するが、そんなうまい話が1冊三百円程度の雑誌に、ころがっているはずがなく、わかっているのは作家たちの体験がみな違うという差異だけだ。つまり文章の書き方などは、別に手本があるというわけでもなく、またマネをしてその気になるのも悪いことでないが、やはり独自性がないと使い物にならない。そこに文章のむずかしさがあるといってもいい。要するに独創性が発揮できるかどうかである。また書こうという思いを持つこととじっさいに書くことができるというのは、まったく次元が違う現実なのだということ。書きたいという気持ちだけでは文章はどんなにあがいてもまず書けない。書くということはまったく違う行為なのである。ここのところが長い間、モヤの中をさまようようでさっぱり理解できなかった。それはわかりやすくいうとパブロフのいうところの「第一信号系」ではなく、さらに発展させた「第二信号系」の応用を理解することだろうと思う。すなわち、二系とは言語と認識の関係についてである。言葉というものは記号のようなものだが、これを読み取る読者は、読者の理解力に応じて、イメージの振幅が違ってくる。しかし、文学の場合、作者が厳密にある表現をしたなら、その通りのイメージでなければ困るのだ。読者によってイメージが別物になったりするとそれは表現する作者の表現が正確でないということにもなる。もちろん、多少のブレは生じるかもしれないが、作者はあくまで正確を期した的確な表現をもちいなければならない。そこがじつはたいへんむずかしいのである。イメージの対象を追いかけながら、ピントを外すことなく、レールに沿って走るような厳密さを要求されるのである。

4月6日(金) 天候 晴れるが寒さがある

 いま手元にある本でもっとも古いものはエドガーポーの小説、昭和42年発行の河出書房の世界文学全集の11巻「ポー/ホーソン」(1809-1849)松村達夫訳である。高校3年生のとき商店街の入り口にある書店で買ったものだ。この書店は地域の度重なる不景気にあおられて他の書店が次々に廃業に追い込まれていったのに、いまだに生き延びていまも健在である。またじつに不思議なことに、この本だけはなぜか喪失することなく、10回にも及ぶ引っ越しにもはぐれることなく、ずっとあとをついてきた。多いとき五百冊以上に及ぶ蔵書があったが、そのほとんどが、いつの間にか、ちりぢりとなって消えていったというさんざんな状況のなかで、おそらくポーの亡霊が当方に取り憑いているせいに違いないと冗談で思ったりするほどあとをついてきたのである。学生のとき買ったポーの高価な東京創元社の3巻に及ぶ全集も引っ越しのたび、どこかへまぎれていつのころか見あたらなくなってしまったのだから。あれから44年の月日が経つが片時も離れたことはない。おまけに夢のなかにこの詩人が現れては、はやく物語を書けとせっつくありさまで、少々薄気味わるいことこのうえない。そして、いつもどういうわけか枕元にころがっていて、深夜、ポーの亡霊がページを開けと命令するような口調を感ずるのである。この古びて朽ち果てた本にポーの霊が閉じこめられているような気がしてならない。たいてい眠る前に開いて数行読んだところでそのまま眠ってしまうということが繰り返えされたのである。これはなにかの意味が隠されているのだろうか。じつに因縁めいたものを感じる。そこでさいきん思い出したのは、当時、仲のよかった同級生のAちゃんとバイクに相乗りしてよく走り回ったことなのである。 あるとき、日もすがら、おだやかな秋の日の午後、いつものようにふたりでバイクにまたがり2号線を東へ走らせて、30キロばかり離れた見知らぬ街に紛れ込んでしまったということがあった。夕闇がせまる頃、ちょうどバイクを止めたところに映画の看板が目に入った。そのすこし向こうに場末の古びたかなり傷んだ建物があり、それがどうも映画館のようでもあった。その看板に3本立てと名打って、「古城の亡霊」「黒猫の怨霊」「恐怖の振子」のポスターが誘いかけるように気味悪げに見えた。ポスターを見てしまったため、呪縛にかけられでもしたように、しぜんに映画館に吸い込まれるように彼と入っていった。3本の映画はすべてロジャー・コーマン監督作品だった。館内の暗闇にまぎれてスクリーンをみているとけっこう気色悪いものがあった。「古城の亡霊」の主人公の兵士は当時無名だった若いジャック・ニコルソンである。ラストの樹の下でもたれかかった美女の顔が蝋燭のロウのようにドロドロに溶け出し、白い頭蓋骨になるシーンはいまも忘れられない。「黒猫の怨霊」の主人公、アル中の男の役はピーター・ローレである。彼は他の誰よりもマネのできない適役だと確信したが、この作品に出演した2年後、この世を去っている。スクリーンでの印象は、かなりユニークである。つい表情がゆるんでしまうほどおもしろみというか一種独特な味のある役者さんである。いまだに彼が生きているかのような記憶が生きているほどなのである。これはホラーにもかかわらず、怖いシーンもあったが、ずいぶんおもしろかった。意外性があり、またポーの原作(黒猫)に忠実ともいえる出来映えで作品としてはよかったと思う。そして、3本目は、じつは3本目の作品の記憶がどうもはっきりしない。先の「黒猫の怨霊」が特異なおもしろさとアクの強い役者の印象が頭にこびりついて離れなくなってしまったため、次の作品の記憶が奪われてしまったためらしい。アメリカ本国で封切られたときは短編のオムニバスとして「怪異ミイラの恐怖」「黒猫の怨霊」「人妻を眠らす妖術」のセットで上映されたという。
 このような低予算でつくるB級映画が全盛期であったらしい。また当時、出演した無名の俳優さんたちも安ギャラでかり出され、のちに有名になった例がけっこうあったのである。デニス・ホッパーとかピーター・フォンダ、ロバート・デ・ニーロ、マーティ・スコセッシ、フランシス・コッポラなどなど。それよりも、このアメリカが生んだたぐいまれにみる才能の持ち主、詩人で作家、鬼才と呼ばれたエドガーポーの直感的で霊感的で織物がなすような緻密な小説がすばらしい。彼のすぐれた才能をいち早く見いだしたのはアメリカ国内ではなく、ほかならぬヨーロッパ、とりわけ、フランスの詩人ボードレールの確かな眼力に負うところが大きい。もし仮に彼が見つけ出さなかったら、その後歴史に残ったかどうかわからないほど影響が絶大だった。いまだに世界文学のなかで特異な位置を占め異彩を放って燦然と輝いている。エドガー・アラン・ポー、いまだに忘れ得ぬ芸術家である。また詩人としてもすばらしいものがある。人気のあった詩「大鴉」はまことにポーの才能からつむぎだされた霊感の強い過敏なほどに天才的な詩だと思わないわけにはいかない。現代の作家で、このポーの影響を受けたと告白している作家は多い。先にあげたトルーマン・カポーティもそうだし、ブラッドベリやフォークナー、そして新しいところではスティーブン・キングやポール・オースターも強い影響が感じられる。日本国内でも早くから彼を紹介して、彼の名前をとった作家「江戸川乱歩」もそのひとりであろう。その後、栄えあるポーの冠をいただいた推理作家の登竜門と呼ばれる「エドガー賞」も設立されるに至った。

Edgar Allan Poe(1809-1849)
(わたしのエドガーアランポーに)

海中都市

 見よ! 死の神は王座をしつらえた
 薄暗い西方のはるかな波の底に
 ひとり横たわる不思議な市に、
 そこには善人と悪人と、最悪のものと最善のものと
 永遠の憩いにつくところ、
 そこは社と王宮と塔が
 この世のものとはいささかも似ていない
  (年ふりながら、震えない塔よ)
 あたりには、波を立てる風も落ち
 空の下に死んだように
 陰鬱な潮がひろがる

 省略

 その昔、わたしは本気で詩人になろうとしていた時期があった。もちろん、詩人になるわけだから、家族を捨てて、放浪の旅に出るつもりだった。もともと詩人などというやからは仕事もせず、1日中、そこらをほっつき歩き、世間から邪魔者扱いされて、追い払われる奇特な運命を背負いボロくずのように漂う連中のことである。自慢するどころか、人生の、世の中の敗残兵そのものである。詩人という名前は与えられても、世間から落伍者の烙印を押され、やみ嫌われ、石を投げつけられて疫病神のように追い払われる、まったく世間では用のないうっとおしい雨雲のような連中のことなのである。世間のやつらはほんとうの詩人など見たこともなければ知ってもいない。生まれながらにして空気のような姿をした、空気の機体のかたまりでできた姿なので、誰もいまだかつてみたことはないのだ。

 ああ、かわいそうなPoe!
 わたしはこのPoeの詩を読むたびに何度涙に伏したことか
 飲んだくれて、酔いどれのまま、薄暗い路地裏で魂を神にささげなければなら  なかった稀にみる詩人よ
 わたしはなんど、どんなにか、あなたのところへひれ伏し、わずかばかりの霊感 を乞うたことか
 −わたしになんの用だ、なにがほしいのだ?詩人はのたもうた、またとない!
 アル中の、ちどり足で、ところかまわずケンカをふっかけて嫌われた稀にみる詩 人よ
 ひとつの詩とは、蛾の妄執、電灯のまわりをきちがいのように飛び回る蛾のここ ろ
 空想ではなく、ほんとうの手でつかめるこころでなければならない、と詩人はの たもうた
 あれから歳月は163年を経て、なお呪いの孤独の世界よ
 夜更けに露で濡らした窓を遠慮がちに鳴らした漆黒のカラスの姿がいまもわた しに見えると
 かくしてカラスはにぶいつやを失った冥府の闇色の瞳で、つぶやいた、またとな い…
 わたしは永遠に魂の影をその床に焼き付けた
 
                   「詩の真の目的」(1842)

 ポーは詩を厳密に定義する。なにをもって「詩」と認めるか。ポーは詩の定義は、世間、一般的に誤解や間違いによって曲げられてきたという。
 詩とは応答である。なんの応答か、誰に対する応答か、彼はこの世の最上の美の天使に対する応答であるといっている。また、自然の、抑制せられぬ要求に対する「応答」であると語っている。それはこの世の完全無欠な絶対的な天上の美に対しての応答であった。
 第二に「詩」とは、そうしたこの世のものとあの世ものとの結合、完全なる結合を求め、その渇望をいやそうとする試みである。
 「虚構によって思考を表現する方法」というビールフェルト伯の詩の定義も間違いではないとポーはいう。
 

4月7日(土) 天候

 先日、夕方の地元のTVニュースで現役最高齢の映画監督の新藤兼人(1912-)さんがもうすぐ百歳を迎える(4/22)ということもあって長寿祝いで取り上げられたらしいものを見た。広島市出身ということで県内で撮影することも少なくないという。また著者も多数あり、それで急に思い出して、書棚をごそごそしていたら、新藤兼人著「三文役者の死」という本が出てきた。これは新藤監督に呼ばれて専属のごとく映画に出演していた「殿山泰司」という役者のことを書いた本である。殿山泰司の実家は生口島、瀬戸田町の林で、当方がもう何年も前にNTTのインターネット接続設定やレスキューで走り回っていたとき、実家の近くで仕事をしたことが思い出された。当時、そこに実家があるとは意外だった。新藤兼人監督は三原沖の無人島、佐木島を舞台にして乙羽信子、殿山泰司主役で「裸の島」(1960)を作っている。セリフなし、無声映画である。出演者は10名足らずのドキュメンタリー風の小品とも呼べる作品。この作品が海外で評価されて新藤監督は世界的な映画監督として認められたということだ。監督は若いとき尾道市内で親族の自転車屋で丁稚奉公などした経験があるらしい。

4月8日(日) 天候

 去年、夏に刊行された新刊「グレン・グールドのピアノ」ケイティ・ハフナー著(2011)鈴木圭介訳(A ROMANCE ON THREE LEGS 2008)原題にもあるとおり直訳すると「3本足との恋」ということになるが、これは彼が愛し求めてやまなかった恋人、すなわちスタインウェイのコンサートピアノ、CD318という機種にまつわる話を綴ったものである。このCD318というコンサート・ピアノの運命を同心円に描きながら、ピアニスト、調律師、録音ディレクターたち、そしてスタインウェイという製作会社の内事情、またそこで働くプライドの高い職人たち、音楽が、レコード音楽が創造されるプロセスを解き明かしながら作者は語りついでいく。当方も、もう20年以上前、公会堂でのM先生の発表会のとき、コンサート用ではなかったが、中級クラスのグランドのスタインウェイを弾いた覚えがある。このスタインウェイのピアノの音はかなり硬質で妥協を許さない峻烈な音を奏でることで定評がある。一方、世界的にヤマハピアノは知られているが、その本質は均一化された無駄のない性能と量産が可能な世界でも例をみない方法で複雑な工程を含むピアノ製作を独特なメソッドで大量生産するメーカーというようことで知られている。M先生のお宅に、レッスンの部屋にヤマハのフルコンサートがある。もちろん相当なもので、あるとき、このフルコンの鍵盤に触ったことがある。先生が弾いてもいいといったので、ちょっと触ったのである。キータッチが予想外に重く、またアクションにこしがあり、ストロークは深く、生半可な指ではとうぜんだが、ろくすっぽ音が出ないのだ。弾きこなすには強靱な指使いが要求される。くだんのピアニストはデビューしてからニューヨークのCBSの録音スタジオで収録した初期のものはこのCD318が使用されているはずである。CBSのプロデューサーのひとりマクルーアとのインタビューで、ジョン・マクルーアはかなりガタのきた、ポンコツピアノですねと言っている。ピアニストは楽器の外見などまったく気にしなかった。彼の一番の問題はアクションの、タッチの感覚が重要だったのである。あの粒のそろったピアノの音を聴くと、指使いが特殊だということがわかる。スタッカートを多様、もしくはノン・レガート奏法をピアノに持ち込むプレイヤーは世界広しといえども彼くらいなものである。それは機能主義とでもいったらいいのか、派手な、きらびやかな音を嫌い、自身の思想を伝えるためにはできるだけ飾りのない音、純粋で控えめな音を求めたのである。また、あらゆる方法を検討した結果、ピアノの音は飾り気がない方が曲全体のイメージがよく伝わるものだという理念に支えられていた。ピアノの音が演奏者以上に雄弁過ぎるとまずいのだ。それに引き替え、彼の演奏はフレーズ、あるいはモチーフがしっかりしていて作曲家の意図がはっきりわかるくらい正確に演奏するというスタイルである。じっさい多くのピアニストの演奏を聴くとたいてい左手の指の音があいまいになりやすいが、彼は左手のフレーズが恐ろしく明快であり、左利きということを差し引いても、彼が誠実な演奏を心がけていることがよくわかるのだ。両手で、ときには左手が右手を指揮することもあるくらいフレーズをしっかり歌わせるので、曲の輪郭が視聴者にわかりやすいのである。後年、最期の録音は皮肉ではあるが、スタインウェイではなく、ヤマハのコンサート用で録音をしたのだという。晩年にはヤマハのフルコンを予備も入れて2台購入していたらしい。一方、CD318はスタインウェイ本社と調律師がいろいろ方々手を尽くしたが、とうとうピアニストが望むような理想的なアクションはついに戻らなかった。彼の死後、彼が所有していたなん台ものピアノは管理財団などに引き取られていった。そして彼の名前を記念し冠したデビューコンクールがつくられ、そこにCD318は置いてあり、若手のピアニストたちに弾かれているということだ。ふつうピアニストはここまである特定ピアノにこだわったりすることはまずないらしいのである。これほどまでにピアノの音にこだわったピアニストは前代未聞でもある。最後まで理想の音を追求してやまなかったピアニストは彼以外あり得なかった。

4月9日(月) 天候 晴れ

 先日、書棚をごそごそしたおかげで、思わぬ本がころがり出た。それは本には違いないが漫画のたぐいで、じつは当方、漫画本はそれほど興味があるというわけではなく、ほとんど持っていないばかりか目を通すこともめったにないのである。そもそも書棚に漫画本が混じっていること自体が不思議なくらいである。装丁の表紙はなく、なんども読み込まれたためか紙がけばだちほころびはじめている。タイトルをみると異色傑作選1「ねじ式」(小学館文庫)つげ義春(1937-)である。発行日は昭和51年の4月に初版本が出ている。その昔、1972年(昭和47)ごろ、新聞社の出張で先輩格のSさんとYさんの3人で三重県の人里離れた山奥をJR関西本線、滋賀草津方面行きの電車の座席に3人で座っていた。この関西本線は、津市紀勢本線から関西本線亀山駅、柘植駅から関西本線と草津線に分かれる。そのときはもう夜中で窓の外は暗くほとんどなにも見えなかった。たぶん、街灯さえ灯っていない幽閉の山間部を走っていたものと思われた。おそらく津市内の三重大学へ行った帰りではなかったと思うが、すでに記憶は忘却に紛れて、おぼろげになっていて思い出すのも困難、不明である。ある駅で電車が停車したとき、車掌が駅の名前をアナウンスした。しかし、その記憶もどうも怪しい。とにかくそこに柘植駅(つげえき)があったのである。暗闇のホームに「柘植駅」と書かれてあった。「つげ駅」と読むのは相当むずかしい漢字である。当方はそのとき漫画家の「つげ義春」の名前が頭のなかをかすめたことを覚えている。ということは、すでに彼は漫画の世界では知られていた、あるいは有名だったことになる。彼の本名と関西本線の柘植駅はまったく同名だったのである。著者が本名を読みやすいように平仮名にしたのはよくわかる。そこでさらに記憶の糸をたぐりよせてみると、当時、高校生の頃(昭和41年)、商店街角の書店で立ち読みした記憶がよみがえってきた。まちがいでなければ月刊漫画誌「ガロ」という雑誌で、そこではじめて「ねじ式」という漫画を見たように思う。じっさい、不思議な漫画という印象があり、そのなんともいえない変わった内容が、ずっと頭にこびりついていたような気もしてくる。作者のあとがきで、この作品の生まれた経緯をのべている。それは作者がラーメン屋の2階の屋根で昼寝をしているときに見た夢が下敷きになっていると……

4月10日(火) 天候 くもり サクラが満開となる

 じつはもう1冊、漫画本が出てきたのである。いま現在、うちの書棚には先日紹介した「つげ義春」の漫画とこの漫画である。この漫画については、1974年ごろ、当方が逆瀬川に下宿しているとき、あるおだやかな、そろそろ春を過ぎるころ、その日は西宮市内で仕事をし、尼崎の西長洲あたりの事務所で売り上げを精算しての帰り、武庫川の土手沿いに近いところで空腹を覚えて偶然見つけたお好み焼き屋に立ち寄った。お好み焼きを注文してできあがるまでの間、目を通した漫画本である。タイトルは「ザ・クレーター1」手塚治虫著(昭和51年)秋田漫画文庫とある。元は週刊チャンピオンに連載されていた週刊漫画だ。そのとき読んで記憶に残っている物語は2巻目の方に収録されていて、じつはウチにあるのは1巻目なので、当方が心に留めた物語は収録されていない。甲子園口が近い武庫川の土手沿いを走り、夕闇に包まれながらクルマを飛ばして逆瀬川の下宿へ帰ったことがずっと記憶として焼き付いているのである。おそらくただ六甲山の稜線、シルエット、夕焼けがことのほか印象に残った、わけもなく、こころに深くしみたからなのだといまでもそう感じることができる。

4月11日(水) 天候 朝は氷点下 晴れ 一時 雨

 先日から本を開いてみても身に入らない。読んでみるが、どことなく他人事のようにしか思えない。たとえば、竹内均著「新渡戸稲造、世渡りの道、自分をもっと深く掘れ!」2004年初版は自己啓発の内容だが、もっともらしいことがこれでもかと書かれてあるのだが、なぜかピーンとこないのである。そこで本を代えて、他の本を開くが気分的には同じで変わりない。どうも本のなかの行を追いかけてもどういうわけか白々しいという思いしか沸いてこない。これはいったいどうしたことだろう?本に責任があるわけではなく、たぶん、当方の精神状態に問題、あるいは原因があると思われる。本を読むとは、けっきょく他人の意見を知る、受容するということになるわけだが、いま当方がほしいのは他人の意見ではなく自分の意見だということに気づいたわけである。自分のなかにある思索、思案、アイデア、発想、独創、なんでもいいから他人のものではなく、また借り物の考えでなく、自分の考え自分の言葉を前面に打ち出したいという思い、そこのところで切に悩むわけである。しかし、日頃、のんべんだらりとだらだら生活している人間にとってはそんな自身の考えが打ち出の小槌のように都合よくいとも簡単に出てくるというわけにはいかない。畑村洋太郎著「失敗学のすすめ」のなかでも、アイデアというものは思いついてすぐ出てくるものではなく、長い下地の期間を通して、ある日、思いもよらないところから生まれるものだといっている。当方がほしいのは自分の納得する表現である。心の対極からもうひとりの自分の声が聞こえてくる。他人の意見なんかどうでもいいから、自分の意見を出せと。はて、自分の意見とは?どこから自分の意見なるものが出てくるのか。井戸の奥深くをのぞき込むように、自分の心のなかをのぞいてみる。霧のなかをさまよい歩き、やがて視界が下に降りてゆく感覚。かなり地層を下がっていく感じだ。ときおり、上から物が落ちてきて、突拍子もないもの音を立てる。静かにしているとまわりが地層に囲まれていることに気づく。そこに居心地のよさを感じる。そこにこころという場所がある。むろん、これは仮想の世界である。

4月12日(木) 天候 晴れ  

 いつだったか、といってもさいきんのTVニュースで、日本通として知られる親日家の文学者ドナルド・キーン(Donald Keene)さんが去年、震災のあとコロンビア大学を退職して日本に帰化すると発言した。そこで本棚をひっくり返していたら、1冊出てきた。安部との共著「反劇的人間」(1973)中央公論という対談本である。戦後、国内より海外で人気を博した国際性豊かな作家、安部と、主にアメリカで活躍した日本びいきの文学者キーン氏との対談である。余談になるが、この2人は当時大の親友で、ふだんはじょうだんばかり言い合って、笑うことが大好きな間柄だったらしい。その後、安部は1993年(68歳)に没している。内容的には、1・日本人論について、2・日本文化と残酷性、3・余韻について、4・文学の普遍性、5・劇的な世界、6・音楽とドラマ、7・情報とドラマなどを2人が対談という形で構成されている。
 1・日本人論、日本人とはどういう民族かということになるだろうが、じつは当方はあまりこの手の話題に興味がない。一時期、出版界では日本人論の本がよく売れたことがあった。当方は人種についてまったく興味がなかった。それは相対的な結果しか出てこないことは明白だからだ。あるいは他の民族との比較で成り立つような現象と解釈してもいいくらいである。あえていうなら、平均的な、群衆から飛び出て目立つことを嫌う地味な性格とか、書けばそれなり特徴がいっぱいあるだろうが、それらは当方の興味の対象ではない。人間一般についてなら多少の興味はそそられるが、民族的な特殊性など挙げ連ねても、○か×かと問うような相対的な結果とたいして違わず、あまり役立つとは思えないのである。
 2・日本文化と残酷について、安部は大戦中、アジアのなかで日本人はかなり特殊だということを経験したと話している。造詣の深いキーンさんは江戸時代の文化に残酷な物語ができたらしいという話をする。たとえば歌舞伎のなかの話であるとか四谷会談とか、現実の世界より、そういった物語のなかに残酷性を見いだすことができるという。
 3・余韻については、小説など物語に限っていえば、結末を白黒はっきりさせるよりは読者に想像させる余地を残して、うやむやに終わるという方法がとられる場合が多い。また、寺の鐘楼、鐘の音などの余韻を楽しむとか、コオロギの鳴き声などに風情を持つというのも日本的であるらしい。
 4・文学の普遍性について、これはむずかしい話題である。よく言われるように「特殊性を通じて普遍性へ」というアインシュタインの理論が下敷きにあるのかどうかよくわからないが、特殊性から出発して時間の経過とともに普遍性へとたどる道筋ということになるかと思う。特殊から出発して大本流の流れに合流するということなのだろうと思うが、つまり、個人の体験も出発はかなり個人的であっても読者という大きな水脈があるかぎりそこに包括されて普遍性へと溶け込んでしまうように思われる。
 5・劇的な世界とは?メディアの発達と普及により、たとえばテレビのニュースなどで、遠くの出来事があたかもそこで起きているかのような、茶の間に居ながらにして事件などふつうではお目にかかれない場面を見ることができるようになったということ。情報網の確立によるメディアの効果。ショッキングな情報も平然とテレビで流されることになったが、さいきんは統制が入ったのか、あまりひどい場面は断りが出るか、放送しないというような倫理観も発達してきた。
 6・音楽とドラマについて、歌劇とミュージカルについての話。
 当方はオペラもミュージカルスもまったく興味がないので、よくわからない。
 7・情報とドラマについて
 現代社会は情報が氾濫しているため、視聴者の目も肥えてきた。少々の映像くらいでは驚かなくなってきた。もっと高度な抽象性が必要だという。この抽象性とは発想による跳躍が物語をおもしろくするという安部の理論、というより持論である。
 また、先に挙げた週刊朝日編「私の文章修行」(1984)のなかにもキーンさんのエッセー「文章の年季奉公」というのがあった。日本文学研究家というのが当時のキーンさんの肩書きである。キーンさんは子供のころは文章を書くのが好きだったらしいが、なぜか大学生になって小説を書くのをやめたとある。ただ手紙をしょっちゅう書いたおかけで文章修業にはなったといっている。たしかに文章がうまいというのと小説を書くというのは別問題である。教授という肩書きがあったため、恥をかかないようそれなりに文章には気を遣ったとある。

4月13日(金) 天候 くもり のち 雨

 現在、当方は術後の、退院後の体調もさることながら仕事の方もさっぱりで、したがって時間的余裕があり、読書も好きなときにできるというひじょうにぜいたくな毎日を過ごしているところである。いまの当方にとっては読むことと書くことがもっともふさわしい生活となっている。読むことは未知のものを受容することであり、書くことは受容したものをしばらく放置して発酵させたのち自身の思考で自身の言葉で再び表現にもどすということである。つまり吸収と発散の交互作用である。人間はビィタル・エラン、自ら新陳代謝するように、運動体として捉えるところからはじまる。そこにとどまることは停滞、つまり死を意味する。常に動き続ける運動体としての人間というとらえ方が基本となる。肉体的、生物学的には栄養摂取と排泄の繰り返しである。我々の生活環境は自然に包括されていて、その自然もまた常に変化の連続で成り立っている。過去を振り返れば、文学もまた壮大なパノラマが一望できる。気分が大きくなったというわけでもあるまいが、河出書房新社、世界文学全集「世界文学の歴史」阿部知二著(1989)初版は昭和63年で当方はまだ中2である。世界文学を長い歴史のなかで捉え、鳥瞰するというのは途方もない壮大な資料に圧倒されることになる。河川の本流のような時代の流れと個別の文学が出現するところを捉えて、なんらかの文明批評することもできるだろう。この壮大な文学歴史を記した著者の「阿部知二」になんとなく覚えがあったので、書棚を適当にかきまわしたら、出てきた。「小説の書き方」野間宏編(1969)昭和44年が初版である。当方は学生だった。十数名の作家が書き方についてコツを伝授しているが、このなかに「小説の構造と書き方」阿部知二の項目があった。簡単に紹介してみると、
 一、「構造」の意識−
 二・時間性・空間性の変化−
 三・叙述の方法−
 一の構造の問題であるが、文章、あるいは小説、物語に構造を持ち出した意味はなにかということだが、要は物語を構築するのを建築物になぞらえたということが考えられる。じっさい文章を構造的に扱うというのは腑に落ちないところが残る。文章を立体的に扱うという言い方とよく似ている。というよりは文章の仕組みという言い方をした方がしっくりくると思うのだが。
 二・時間性と空間性の変化について、物語はこの2つの要素を含むということだろうと思う。作者は長編物語を時間性に富むといい、短編物語を空間性にあてはめようとしているが、これも少々無理があるのではなかろうか。
 三・叙述の方法について、


 「文学とは何か」加藤周一(1919−2008)
西欧的視野に立つ日本文化論(昭和46年)

 目次

 文学とはなにか 文学とはなんであるか
1 客観的な方法
2 作家の体験
3 言葉による表現
4 文学の前提

 何が美しいかということ
1 美の感じ方のちがい
2 日本的な美しさ
3 現代風俗

 何が人間的であるかということ
1 人間的ということ
2 文化と文明
3 人間の自由

 詩について
1 純粋詩について
2 日本の純粋詩
3 中世の詩精神

 散文について
1 西洋文学の文体
2 日本の散文

 小説家の意識について
1 日本文学の限界について
2 広場の意識と孤独の意識
3 文学における社会的意識
4 歴史的後進性と文学

 文学とはなんであったか
1 いかに文学はあるべきか
2 西洋の近代文学
3 日本の近代文学

 文学の概念についての仮説

4月14日(土) 天候 くもり のち きれいに晴れわたる

 片付けをしていたら、ふいに新聞記事の切り抜きの紙片が出てきた。紙片は日に焼けて赤茶けてくすんでいる。日付がないので、いつ頃の記事なのかよくわからない。「20歳過ぎたら自分史」というエッセーである。著者はサラリーマンののち、作家になった人物である。著作の一冊「ほんとうの私探しの技術−ゼミナール『自分史』入門」(早稲田教育出版1996)というのがある。作者の弁によれば、自分を見つめ直すことに年齢は関係ということだ。当方がいまこうして書いていることも自分史の一種で似たようなところがあるかもしれない。ただし、自分を客観的に見るというのはなかなかむずかしい。公平に、過不足なく自分を評価など誰ができるだろうか。やはり自分を知るというのはやさしいそうでじつは相当むずかしい作業にちがいない。まず、書くということからして、習慣のない者なら、たちまち戸惑うことになる。書き付けている者なら、表現することはさほど難しくないが、ただ、どのような書き方をするか、決めないと書いてみたものの、読みにくい、あるいはわかりづらいものになってしまいかねない。また、単純にありのまま、書けばいいと言われても、主観的に自分勝手に書いて、読み手の存在を無視すれば、なるほどそれなりに書けるだろうが、しかし、他者からみればさっぱり訳のわからない文脈となることはたしかである。その昔、書き手と読み手の関係が未発達あるいは未成熟のころは、作者の言いたいことがさっぱりわからないという理解しづらい物語はけっこうあった。しかし、現在の状況では、必ず、読者を想定しているので、そういう独りよがりな書き方は敬遠される方向にあるのだ。そこでもう一度、おさらいをすると、書くということについては、なんども言うが、まず日記をつけることからはじめるのがよい。はじめは簡単なことを書き留めるくらいから出発して、少しずつ、表現に厚みをもたして広げていくことになれていくのがいいと思われる。もう一度、作者の弁に耳を傾けよう。『まず、書き上げる(納期)を決め、週単位の生活時間割り表をつくる。朝の時間を有効に使うことです。資料は残っている学生証や写真、メモやノート類など集め、時代を考証し直すとおもしろい』というようなことになるかと思う。書くということは、思うままに書くというだけでなく、自分という人間を、特徴を表現する手段となるべきである。背伸びしていえば、みせたい自分を演出するといってもいいかもしれない。

4月15日(日) 天候 晴れ

 新聞の記事に目を通さなくなってずいぶん久しい。新聞記事は人として最低の教養とよく言われるが、月々のインターネット代を捻出するため、あえて新聞代を切り捨てたのである。本意ではなかったが、収入が限られている以上、どこかでなにかが犠牲になるということもよくあることである。たまたま新聞がそこで犠牲になったというわけである。とくに文化欄に目を通さなくなって出版界の事情がまったく疎くなってしまった感がある。さいきんのニュースをたよりに感ずるのは、いま出版界は過渡期にあり、大きな曲がり角にきているということである。2009年アメリカでAmazonの電子書籍端末「kindle」が発売されて、携帯端末で書籍がいつでもどこでも読めるようになったからである。インターネットの普及で誰もが出版情報に触れ、作者になれ、また発信者にもなれるのである。つまり双方向の役割を担った新しいシステム、この仕組みを利用しない手はないだろう。ちまたでは「自炊」が静かに、ひそかにブームになっていると聞く。本を持ち歩く代わりに端末機器に好きな本のページを入力して持ち歩くというやりかたが普及しはじめたようだ。ネットを通して新作を配信することもすでに始まっている。ペーパーレスは環境的にも成果が出ることが期待されている。一昔前、東大教授だった竹内均先生は月になん十冊も書籍を買い込み、読後は本の始末をどうするかということになるが、先生が思いついたのは地域の図書館に寄付するだった。しかも先生の読書の仕方はかなり合理的で、ぱらぱらとページをめくって必要なところだけを吸収するというやり方である。重要な項目はファイルにして書庫に保管するのだが、整理がたいへんで、また必要なとき引っ張り出すことがてきるようにタグをつけて保管する方法をとった。

4月16日(月) 天候 くもり

 人にはそれぞれ得意な分野がある。なにが得意かは、自身で問うしかない。が、その前にやらなければならないことがたくさんある。つまり、手当たり次第になにか行動を起こし、そのなかから、得手不得手ということがひとつひとつわかってくるだろうと思われる。しかし、運よく他人が教えてくれるということもないわけではないが、それはごく稀である。もし、得意な分野が発見できれば、しめたものである。あとはあきらめることなく、その得意な分野を再三繰り返して、手に入れた「技」に磨きをかけていけばよい。

4月17日(火) 天候 晴れ のち くもり 一時 雨  

 ルイス・キャロル(1832-1898)本名チャールズ=ラトウィッジ=ドジソン
 いまではすっかり古典の仲間入りをしてしまった「ふしぎの国のアリス」(1865)をめぐる諸説を調べてみる。この作品はよく知られているように彼が子守代わりに連れ出した幼い三姉妹にせがまれて即効で聞かせたおとぎ話が基になっている。このとき彼は独身で30歳だった。彼のお気に入りは当時10歳の次女のアリスであった。そこから後日、このとき話した物語を元に「ふしぎの国のアリス」の元型ができあがった。正式に出版されたのは1865年だが、さきに話をしたときは1862年であるから3年後に書き改められて完成したことになる。ということはアリスは13歳でいまなら中一の年頃である。さらに続編として「鏡の国のアリス」を上梓しているがそれは1871年である。6年後ということになるがアリスは19歳である。作者のキャロルことドジソンは39歳になっている。
 ところでアンドレ・ブルトンが「シュルレアリスム宣言」を出版したのは1924年だから、ずっとあとのことで「ふしぎの国のアリス」の方がさきに出ていたことになる。当方が思うに、すでに手法としてはこの作品があったわけだ。当方の独断を許してもらえればシュルレアリスムの先駆けはこのルイス・キャロルの「ふしぎの国のアリス」だと断言してもいい。あるいはスイフトの「ガリヴァー旅行記」(1726)などもその種類に包括されていいようにも思う。もっともスイフトのこの物語はシュールというより趣旨としては風刺小説ということらしい。このドジソンの物語を読んでみると、はちゃめちゃというかナンセンス風で、すこししゃれていて、また茶目っ気もあり、たいへんおもしろい。「ふしぎの国のアリス」はたしかに先進的でしかも超現実的な物語でシュルレアリスム的作品にふさわしいといってもいいほどだ。ところがアンドレ・ブルトン著「シュルレアリスム宣言−溶ける魚」(1992)のなかにはルイス・キャロルの「ふしぎの国のアリス」は取り上げられていない。もし、ブルトンが英語が読めているなら、おそらくまちがいなく「ふしぎの国のアリス」を彼のシュルレアリスムの系譜のなかに取り込んだろうことは想像に難くない。
 安部の短編小説、エッセー「笑う月」(1975)のなかの「アリスのカメラ」で国内の貧相なカメラ事情を皮肉っぽく語ったのち、アリスの作者ドジソンが当時まだ満足な性能も見いだせなかったカメラに懲りだし、少女の写真を撮っていたという事実についてである。いまなら、差し詰めロリコンと呼ばれるかもしれない。彼の周囲がハラハラしたのも無理はない。いまだって、カメラ片手にいい年をこいたおっさんなんかが少女の写真なんか撮っていると勘違いされるだろうことは容易である。しかし、当時はそのような感覚はなかったのかもしれない。まだカメラはそれほど一般的ではなかったろうし、被写体についてあれこれ論議があったとはあまり思えないのである。好奇心だけでカメラのシャッターを押した、そんなのどかな時代だったかもしれないのだ。


 「鏡の国のアリス」文庫本、河合祥一郎訳平成22年初版挿絵はジョン・テニエル
 物語上の話の続きとして前回作「ふしぎの国のアリス」から半年後、こんどは鏡の国の話である。じっさい出版された年月は6年後である。アリスはもう19歳で大人にちかい年齢になった。
 ドジソンは次女のアリス(6歳?10歳頃?)を当時、はやっていた乞食ルックで写真に収めている。それにしても巻頭の詩は、前回と違い、なにか、憂いがこめられていて、覇気が失われているのが気にかかる。まるで片思いでもしているかのようである。

 ジーキル博士とハイド氏−スティーブンソン(1850−1894)
 いまではすっかり、怪奇、ホラー、サスペンスの古典となってしまった感がある。初読はうろ覚えだが、中学生か高校生のときだったと思われる。短編なので気軽に読めたという気持ちがあった。

4月18日(水) 天候 晴れ 薄雲が広がっている

 小泉八雲「怪談」(1850-1904)について、「怪談・骨董 他」平井呈一訳(1975)この本は昔から伝わる当時の人たちの言い伝えが下敷きとなっているらしい。また日本古来の古い本から借用して脚色したようにも記してある。骨董とはそういう古い物語から練られた日本の奇事珍談である。昔、当方が中学生だったか高校生のとき、同級生のAちゃんと東宝映画で監督、小林正樹「怪談」(1964)というのをみた。小泉八雲の「怪談」のオムニバスで第一話「黒髪」第二話「雪おんな」第三話「耳なし芳一のはなし」第四話「茶わんのなか」だったと思う。みて怖かったのは、いや、みな怖かったがとくにぞっとしたのは「耳なし芳一」と「雪おんな」の物語である。

 「怪談」KWAIDAN LAFCADIO HEARN繁尾久訳(1992)

 たけみつ教授の「怪談と日本人」武光誠(平成20年)

4月19日(木) 天候 晴れ のち くもり 夕方、一時 小雨 

  丸谷才一「文章読本」(1977)ずっと昔、一度は文章に関する正統な書き方なるものにふれておかねばならないという半ば強制的な気持ちで買ったものだが、ほとんどまともに読んだことはなかった。それは別に「文章読本」など読まなくても、また知らなくても文章を書くうえで少しも不自由することはないからである。このたぐいの本をなん十冊読もうとも文章を書くうえではまったく関係がないといってもいいくらいである。とはいうもののせっかく金をはたいて買ったものでもあるし、なにかしらそれ相応のわずかな価値くらいはあるだろうと思ったまでである。文章が旧仮名遣いであるため、しょうじき読みやすいとはいえない。きょうび読みにくい本が敬遠されるのは当たり前である。
 第一章 小説家と日本語
 過去、文章読本を書いたのは昭和9年に谷崎潤一郎が「文章読本」を、昭和25年川端康成が、昭和34年、三島由紀夫、昭和50年、中村真一郎らである。
 そして昭和52年に丸谷才一となる。こんなにも作家が同一の題名で書く文章読本とはなにか?ということになりそうだ。小説をよりよく読むための体裁、いま風にいうと文章の常識とでもいうべきものか。文章を書こうとする者、もしくは読む者にたいしての知っておいた方がいいという指南書でもあるのだろうか。しかし、ほんとうに小説を書こうする者はこんな本の内容ではひとことも文章は書けないだろうことは確かである。
 第二章 名文を読め
 文章上達はの秘訣はただひとつしかない。それは名文を読むことだという。たしかに、文章を読まないと文章はまず書けないことも事実である。この場合、名文というより世に出ているよく読まれている作品を読むことがなによりの処方箋だろう。本をたくさん読めについては異論はない。
 第三章 ちょっと気取って書け
 つまり格調のある文章にせよ、という意味だろうと思うが、これにはいろいろあって、当方が思うのは最初の一行をどう決めるかという出だしの問題である。そしてこの一行に対しては全身全霊をこめて、決定打のような、ふさわしい書き方が効果的だと思われる。出だしをどう決めるか、これは相当むずかしい。
 第四章 注意といふこと
 文章は伝達という目的でもって書かれているという当たり前のことを、あえて作者は注意している。もちろん、基礎的なことだが、往々にして、うっかり間違いをしでかすことが多々あるからだろう。
 第五章 新しい和漢混淆文
 現在の文章は昔と違い、仮名漢字交じりの文章である。文章をふつうに書くととうぜん漢字と仮名使いで文章を組むことになる。
 第六章 言葉の綾
 言葉の綾というのはいったいなにか、ひとつの言葉に対して別の意味が含まれている場合をいうのか、それとも、受け取る側を惑わせるための方策なのか。日本人は角が立つことを極力嫌うため、考えられた婉曲の技なのだろうと思ったりする。ずばり言うことを避けて、遠回しにいうことで、人間関係を壊さないしきたりのようなものかもしれない。意味深な表現のようにも受け取れる。
 第七章 言葉のゆかり
 新しい言葉より古くからある言葉を使えという意味なのだろうか。たしかに古くからある言葉を使う方が、なんとなく品よく映り、また文章が高尚になり、体裁が出て、また恰好がつくからだろうか。
 第八章 イメージと論理
 このイメージについては、現代ではなかなか重要な項目となりそうである。言葉の機能のひとつにイメージの伝達が含まれるからである。
 第九章 文体とレトリック
 ここまでくるとかなり文章作成もきわめて高度になり、名人芸まであと少しとなる。
 第十章 結構と脈絡
 つまり、文章、あるいは物語など、読み物は必ず、はじめの一行、そして最期の一行がある。はじめと終わりをどうするかという問題かと思う。文章の過程についてであろう。
 第十一章 目と耳と頭に訴へる
 五感に訴える文章が書ければ、名人の終了書を発行してもいいと思う。一応、文章修行から卒業である。じっさいは一作目が終了という意味のことであって、次の二作目でまたはじめからやり直しとなるので、ほんとうの卒業という意味ではない。
 第十二章 現代文の条件
 なにを書くか、という深淵な問題にはたと突き当たり、髪の毛を掻きむしって、のたうちまわるしかない仕業にたいていの創作家は物書きになろうとしたことに後悔するほど悩まされることになるだろう。

 いや、まことに文章の「いろは」は奥が深うござる。

4月20日(金) 天候 晴れ のち くもり

 三浦つとむ「日本語はどういう言語か」(1971)
 逆瀬川時代に文章修行していたときに梅田の紀伊国屋で見つけて買ったものである。この本は35年以上経て装丁もちぎれて表紙さえなくぼろほろになっている。ということはよほど繰り返し読んだため装丁が傷んだのだと思われる。が、それにしてはページをめくっても内容がさっぱり思い出せない。ほとんど読後の印象がなかったということになるのだろうか。それともただ読み流しただけだったのだろうか。いま、すこしページに目をとおしてみると、なんとなく、くどい言い方でしつこい感じがしないわけでもない。ヘビが自分のシッポをくわえてみてもはじまらないだろうと思ったりするが、要するに記述の要領が悪いのだ。不要な箇所をカットすれば、すこし読みやすくなる。こちらの方で要点をわかりやすくまとめてみるのがいいかもしれない。作者の方法は唯物史観が構造としてあると思われる。またもっと科学的なとらえ方をしてそれを軸にして説明してほしかったと思ったりする。

 第一部 言語とはどういうものか。
 第一章 絵画・映画・言語のありかたをくらべてみる。
 1・絵画と言語の共通点について
 作者はいう「
言語も絵画も、人間の認識を見たり聞いたりできるような感覚的なかたちを創造してそれによって相手に訴えるという点で、言いかえれば作者の表現であるという点で、共通な性格をもっています」つまり表現するという方法で共通だと。いまなら、こんな言い方はせず、言語と絵画は認識の方法がちがうのだということをはっきりさせる方がわかりやすいと思う。
 ものを見るという行為は見る者の位置、視点を表している。カメラであればアングルということになる。文章も同じように、表現された言葉は、もしくは文章は作者の表現方法のひとつということになる。それらは作者の目の位置、もしくは考え方見方を表しているということになる。
 表現する作者を主体的表現と呼び、表現された作品を客体的表現と呼ぶことができる。このふたつは対立しているが統一体としてみるべきであるという作者の意見。見る方と見られる方がそろって成り立つからである。どちらかが欠けると成立しない。したがってこの2つを統一体とする。視線の位置について、ひとつは写実的な見方(主観的)地図的な見方(客観的)という見方ができる。さらに、表現するということは現実を表現することと、内的想像を表現するという2つの表現がじっさいは混合されて書かれるということがある。また作者はひとつの表現をするが、読者が不特定多数の場合は、各々受け取り方が違ってくるということも起こりえる。たとえば、アルファベットの「A」は誰がみても「A」以外にあり得ないが、「ネズミのような顔」をした男と表現した場合は、読者はそこにイメージを思い起こす。あるもの者はドブネズミのイメージを、あるもの者はハツカネズミを、と読者によっていろいろイメージが思い浮かぶだろう、ということである。

 2・モンタージュ論は何を主張したか
 「モンタージュ」というのは映画製作での方法のひとつであり、映画を編集するときに「つぎはぎ」をしたのがはじまりであるらしい。フィルムの場合、異なった映像をつなぎ合わせることで驚くような効果があったことは確かである。映画の場合だと観客は「つぎはぎ」をしたなどと製作上のトリックなどしるよしもないので、びっくりしてしまう。種を明かせば、なーんだということになるだろうが。レコードなどの演奏なども、ミスがあれば録音テープをつぎはぎしてミスを目立たないようにごまかすということは以前より聞いたことがある。それはプロデューサの配慮だったりするのである。創作の手段ではなく、ミスを訂正するための方便として使用される。では、小説とか物語にこの「つぎはぎ」を適用できるだろか、またそのような「つぎはぎ」をしてどのような効果があるだろうか。たしかにモンタージュを応用したような小説がなくはない。小説のなかに別な物語を挿話として入れたものがあるにはあるが、それをモンタージュと呼べるかどうか。そうだ、ひとつ思い出した。花田清輝はいぜん作品の共同製作を提唱したことがある。「故事新編」という元は魯迅の手になるものだが、共同執筆という形で合作した芝居があったのを思い出した。じっさいに上演されて評判もよかったということだが、当人はどうも気に入らなかったらしい。これなどはひとつの作品を共同で合作したのだから、モンタージュだといえなくもない。現在上映されている映画は、モンタージュというより、SFXとか特殊な効果をふんだんに使用し、しかもそれが観客には見破れないほどトリックが自然と変わらないほどの出来映えとなっている。つまり「創造的なだまし」を見せられていることになる。

 第二章 言語の特徴−その1、非言語的表現が伴っていること
 1・言語の「意味」とは何か
 言語学者の説明によれば、言語とは、ひとつは書き手の側の心的表現ということになる。もうひとつは読み手側の、書かれた内容について受ける心的状態となる。つまりコミュニケーションとしての道具として用いられる。また、ハヤカワのように言語の意味を内在的意味外在的意味とに分けた学者もいる。
 内在的とは心的イメージのような、たとえば読者の心で起きる現象である。外在的とはじっさいの実在するものを指す、つまり現物である。が、小説などはすべて内的な読み手の心の心象として受け止められるものであるとする理論である。問題は「言語」に意味があるのかという問いがある。言語はたんなる記号ではないのかという問いである。ただし、受け取る側がその記号を具体的な意味として還元してやることで意味をなすという。言語が「家」とあった場合は、読み手が心の中で家を想像したりできる。またじっさいに目の前に建っている家を見たりする。言語は象徴のような役目を果たす。
 やはり、どうも内容的にまわりくどい書き方が目について、もうすこしわかりやすい書き方をしてよかったのでないかと残念に感じる。こういった説明はもっともらしいとは感じるが、言語を解剖学的に説明してもあまり役に立つとは思えない。それより言語を機能として捉える方が適していないだろうか。たしかに小説など書かれた文章はそれだけでは記号だと言われても否定できない。読者が読んではじめて文章は、書いた者と読んだ者とのあいだで関係が生じることになる。
  2・言語表現の二重性
 うーん、言いたいことがよくわからない。つまり「言語表現」は文章と音声からなるということらしい。たとえば、相手に紙に書いて伝える。声に出して伝える。伝達方法の違いということになる。
 3・辞書というものの性格
 辞書は当方もよく使うが、それは補助的な役割を持っているといえる。つまり文章を書いたりする必要のない者にとっては、辞書はあまり役に立たないということである。ことばの理解を助ける資料のひとつかもしれない。もちろん、辞書によっては内容が異なることもあるので、辞書はひとつではなく、他の辞書も参考するということも必要になる。
 言語道具説について
 もし、我々が言語とはどういうものかと聞かれたら、たぶん、おおかたの人は返答に困るのではないかと思う。言語とは道具のようなものとか、伝達手段のひとつ方法だとか、言語がなければ、世の中すべて、手ぶり身ぶり、パントマイムになってしまうとか、いや、言語はほんとうは暗号なので理解できる人にだけわかればいいのだと、いろいろ各人によってとらえ方がちがうと言わざるをえない。
 4・言語道具説はどこがまちがっているか
 これも解釈の問題であって、あまり重要とは思えない。
 5・音韻およびリズムについて
 これもよくわからない。

 第三章 言語の特徴−その二、客体的表現と主体的表現が分離していること
 1・客体的表現をする語と主体的表現をする語がある
 2・時枝誠記氏の「風呂敷型統一式」と「零記号」

4月21日(土) 天候 のち くもり 

 時枝誠記「日本文法−口語編」(1950)
 これも逆瀬川時代にことあるごとにひもといた文献の一冊である。かなり古い文法書で、ものを書こうと思う志のある人は一度は目にしたことのあるはずの書である。当初、目を通したとき年代的に相当古いにもかかわらず独自の理論に斬新さが感じられ、よく読んだという記憶がある。本文は旧仮名遣いのため、読みづらかったが、内容がすぐれているため、必死に読み解こうと努力をしたことを思い出す。
                          目次
 はしがきによると、日本語は文法すらないのではないかと、懐疑について、自説を述べている。仮名と漢字による混合の表現は外国の人間からすれば不可解な言葉のように受け取られる傾向があるといっている。また日本語の文法も未確立でいまだに発展途上にあるように思えること。西欧の文法を手本として日本語に適用させ日本語を理解しょうとした経緯もあるようだが、博士は日本語は日本語の研究から文法論を興すべきだといっている。そして日本語は「言語」というもっと基礎的な観点から見直す必要があると説いている。
                          目次
                        第一章 総論
 1・日本文法学の由来とその目的
 2・文法学の対象
 3・言語の本質と言語に於ける単位的なもの(1)
 4・言語の本質と言語に於ける単位的なもの(2)
 5・文法用語
 6・用語の活用と五十音韻及び現代かなづかい
                        第二章 語論
 1・総説
 イ・言語に於ける単位としての語
 ロ・語の構造
 ハ・語の認定
                        第三章 文論
 1・総論
 2・詞と辞との意味的関係
 3・句と入子型構造(1)
 4・句と入子型構造(2)
 5・用言に於ける陳述の表現
 6・文の成分と格
                        第四章 文章論
 1・総論
 2・文の集合と文章
 3・文章の構造
 4・文章の成分
 5・文章論と語論との関係
 6・その他の諸問題

4月22日(日) 天候 くもり

 G.F.Handel「Ombra mai fu」をJennifer Larmoreで聴く。ヘンデルのラルゴのタイトルで有名、誰でも一度は聴いたことがある曲である。元は歌劇「クセルクセス」のなかのアリア。この有名な曲はキャスリーン・バトルとか、当代のいろんな歌姫が聴かせているが、当方はこのジェニファーの声がずっと好きである。
Jennifer Larmore bone Jure 21 1958 in Atlanta,Georjia is an American mezzo-soprano opera singer

4月23日(月) 天候 晴れ うっすらと霞がかかる 

  関根弘「花田清輝−二十世紀の孤独者」(1987)
 花田清輝(1909-1974)のことを詩人で評論家の関根弘(1920-1994)が書いた本である。余談になるが、当方が岡山市内へちょくちょく行くようになったのは、もうなん十年も前のことであるが、岡大付属病院前の通りを少し東へ走ると陸橋があり、そこに清輝橋と書いてあり、通るたびに気になっていたのだが、当方はてっきり花田清輝から名前を拝借したもので彼の出身地、出所だとばかり思っていて、つい、さいきん、といっても数年前までそう信じていた無知な自分があったのである。書き手の関根弘については、安部の初期作品の短編「空中楼閣」(1950ごろ)のなかで、へっぽこ詩人の「S」というくだりでわずかに出てくるのである。安部は埴谷雄高の紹介で昭和23年(1948)「夜の会」花田清輝、岡本太郎、野間宏、埴谷雄高、佐々木基一らによる会合に参加している。遅れて翌年、関根弘らと「世紀の会」へも参加している。ここには戦後、日本文学が花田清輝を巻き込んでどうのような足取りを残したか、その錯綜としたなかに復興の勢いをかいま見ることが出来る。また安部の短編「虚構」にこの絵描きの「H」なる人物が出てくるが、それが花田清輝である。

 
花田清輝−ちくま日本文学全集(1993)

 復興期の精神より
  女の論理−デンテ
  群論−ガロア
  楕円幻想−ヴィヨン
 *
 錯乱の論理より
  テレザ・パンザの手紙
  二つの世界より
  砂漠について
  驢馬の耳
  アバンギャルド芸術より
  仮面の表情
  マザー・グース・メロディ
 *
 もう一つの修羅より
  ものぐさ太郎
  鳥獣戯話より
  みみずく大名
  俳優修業より
  月の道化
  随筆三国志より
  烏に反哺の孝あり
 *
 日本のルネッサンス人より
  眼下の眺め
  古沼抄
  室町小説集より
  力婦伝
  伊勢氏家訓
 *
 桃中軒雲右衛門

 
別冊新評「花田清輝の世界」(昭和52年)

 この雑誌は43人におよぶ作家たちが「花田清輝」について各方面から論じている。彼の死後3年経たときの総合評価のような形で出版されている。
 

4月24日(火) 天候 晴れ 霞のようなモヤがかかる

 きょう、先日から注文していた本が届いた。「苫米地英人」(1959-)の本である。著者は一風変わった姓で一度覚えたら忘れることはない。この人はいったいなに者なのか?医学博士かと思ったがl臨床的な医者ではなく、肩書きは脳機能学者とあり、雰囲気的には、なにやら「けったいな人」という印象がしないわけでもない。単なる学者でも博士でもなさそうである。が、科学者をもって任じているらしいところをみるとやはり学者さんであるらしい。はじめの紹介のところで海外のクラシックコンサートによく行くのだといい、スタインウェイの響きが好きだといい、自宅のリビングには物好きらしく象牙鍵盤のオールド・スタインウェイ・グランドピアノを置いている。ものごとのはじまりは休止、いつはじまったかわからないはじまり、また終わりは余韻を残しながらフェルマータで終わる。そのはじまりと終焉をどんなときもそれを感じるべきだといっている。また、クルマ好きなのか、フェラーリをなん台か所有していて、このクルマは実用的に乗るクルマではなくて芸術品のように置いておくもの飾っておくものだと言っている。
 スコトーマについて見識があり、彼は誰でも知っている「ルビンの盃」の例を持ち出す。知っての通り「ルビンの盃」はひとつの画像で2つの見方(顔と壺)とらえ方ができる錯覚を利用した不思議な絵である。逆にいえば、人間の視力、視点は同時に2つの画像を認識できないという欠点がある。そこをついた画像のトリックに脳が追跡できないというわけである。人には盲点が必ずあり、その盲点を克服することがぜひとも目標達成に必要である。この書は脳の機能を理解して、それを逆手にとって応用する方法を記した個人に関する本である。この手の本はいま心理学が発達して研究資料が増えたせいか、かなり書店の棚に並べてある。しかし、正直なところ、どれも似たり寄ったりで、たいしたことを記した本はないといっていい。古くはアメリカのニュー・ソートが有名であるが、要するに自己啓発のたぐいのようでもありそうだ。
 著者のいうとおり説明すれば、人の認識は過去の積み重ねによって現在があり、積み重ねによってできあがっている。現在の自分は問題が起きたとき、この過去からいろいろ解決策を引っ張りだしてきて、いまを、現状を対処していることになる。そして過去に見たものがないものは一切見えない(スコトーマの存在)ということになる。また日常の習慣と呼ばれるものはその過去からの無意識で成り立っている。キーポイントは「過去」、「無意識」、「習慣」、「スコトーマの存在」「未来」ということになるかと思う。そこで、自分の未来に対してタイムマシンを利用して「目標設定」をすることで、いままでの過去からの無意識にまかせ頼るのではなく、未来の目標から逆に無意識に働きかけて、習慣に変化を与え、達成するための行動へと駆り立てるようにするものである。かなり理屈っぽい内容だがサイエンス的で合理性はあるようなので読んで違和感はない。完璧と思える内容だが、はたして人がこの理論を実行していけるのだろうかとあらぬ心配をしてしまうほどである。いくら理論が完璧でも人がじっさいに応用できなければ宝のもちくされとなってしまう。すべての人に入口が大きく開いていても出口に到達できるのはごくわずかという結果になりかねない。しかし、それが現実の結果かもしれない。
 このプログラムは目標をもっている人間がいかに目標達成できるかをたすけるプログラムである。このプログラムはまたアメリカで有名なコーチの達人、先月惜しくも他界したルー・タイスによる指導を補うものである。
 脳の機能の理解と応用について
 内容について当方の所見を記してみたい。
 人生がそうであるように、どんな場合もスタートとゴールがある。
 この一見なんの変哲もないスタートとゴールがもし存在しなければ、ピリオドがなければ、人は百年、たとえ二百年を生きられるとしても、ただだらだらと生きることになり、結末が存在しなければ、人生は生きるに値しないと断言できるかもしれない。というような結果を持ち出すことも間違いではないように思える。まことに人生はスタートとゴールの繰り返しである。最後のゴールは残念ながら存在の出口に達するということを意味しているのである。
 そこで限りある生をよりよく生きるための方策というのが思案されることになる。

 1・脳が脳について考える。鏡のなかの鏡の像の世界である。人体のなかでの脳の役割とは、よく言われるように司令塔の役目を果たしている。たとえば眼について、光を感じる器官のひとつだが、全体を見渡し、空間を捉える認識と線的な追跡をする部分のみに集中する視力と、脳は視力の助けによって全体的な空間を認識し、部分としての子細な集中を同時に把握することは困難である。線的な集中を視力が実行しているときは、背後の空間は見えない。パソコンの世界でいえば、つまり、あくまでシングル・コアの特徴を示す。もしくは見ていても認識されていない。というより意識的に認識からはずされてしまい把握することは困難となる。ここにスコトーマ現象が起こる要因がある。一方を認識したとき他方の視野については無視される。ここに脳の機能の弱点もしくは重要なヒントが隠されている。

 2・脳はむずかしいことを考えたりすると膨大なエネルギーと酸素を消費する。しかし、ふだんの脳は全体のたった3パーセントほどしか動作またはエネルギーを消費していないらしい。もし、全能力を使用するとどうなるか、その場合、その消費量はざっと換算すると原子力発電所の1コ分に相当するという。もしくは脳は電気信号回路がショートして使い物にならなくなる恐れがある。つまり、錯乱状態に陥る。また大量消費に対してエネルギーの補給、供給が追いつかなくなるという結果、そこで脳は安全に機能するために、ふだんの脳は手抜きしてランニングし軽く流すような対応しかしていない。つまり、脳は本気で働いていないということになる。

 余談になるが、もう他界したNHKの元プロデューサーでWという「賞男」と異名をとるドラマ作家がいた。彼は1日の食事が6回という摂取量の多さで、他をぬきんでていた。つまり、彼の場合、ドラマを捻出するため脳を酷使するという結果、相当なエネルギーを消費し、そのため食事を増やすことで体力維持をしていたということなのである。もうひとつ作家のAは創作に向かい集中すると脳が活性化しオーバーランして制御不能となり、その結果、毎夜眠られなくなるという理由で、睡眠薬を手放せなかったという話が残っている。

 このように脳の酷使、高い機能を維持するには相当の栄養摂取量やあるいは回復するための睡眠、、また補助的な過給装置が必要となってくるのである。つまり人間にもそのうち緊張維持のためには脳機能維持のためのスーパーチャージャーやターボの役目をする栄養の過給装置が装具されるようになるのかもしれない。
 
 つまり脳が本気で働かない、機能しないというのは以上の理由から納得できることらしいのである。脳のエネルギー消費消耗にたいして栄養を供給する胃や腸など消化器官などが進化が遅れているため追いつけないことが原因である。脳の消耗と栄養補給、回復のアンバランスが原因であるという。
 
 Reticular Activating System(RAS)「網様体賦活系」による脳の情報過多を防ぐため受容と遮断の選別する役目をするフィルター機能について。脳の情報過多による回路のショートを防ぐための安全装置の一種と理解することもできそうである。つまり生体にとって重要度に応じて脳は機能するということである。横着な脳にはそれ相応の機能を、多忙な人の脳にはそれに適した処理ができるように脳がセットされるのである。
 
 記憶のモンタージュ。脳の特徴として、現実の体験と夢の体験の区別がつかない脳のスコトーマ現象について。これはひじょうにおもしろい現象だといえる。脳は自分の脳をだますということを平気でやってしまうのである。脳は記憶について、疑似体験だとしてもいっこうに気にしないのである。記憶があやふやというのはそういう結果なのだろうと察する。そこで本物の体験の記録とニセの記録を混ぜ合わせてモンタージュしたとしても脳は異議を挟まない。つまり処理し終えたことに脳は興味をしめさないという特徴がある。

 極端な例を持ち出すと、たとえば、過去に自信のない男がいたとする。彼はいつも自信喪失の状態で生きてきた。なにか目的に向かおうとするとき、この過去の失敗を脳がデータから引き出す。またしても彼は目的を完遂できないと絶望的な感情に支配されてしまう。そこで、こういう手を使うのだ。心のイメージを創作する方法である。彼は静かな瞑想のなかで、都合のいい物語をつくる。彼の物語は自分が会社のなかで重要な立場にあり、難関をつき次ぎ突破してプロジェクトを完遂させるというドラマをこしらえてやる。自分はものごとに対して自信があり、やればできると、それを脳にインプットすると脳はそのように機能しはじめるというのである。つまり、現実離れした、たとえつぎはぎのモンタージュであっても脳はだまされたとは認識しないのである。脳の働きをこのように組み替えしてしまうのである。彼の過去データはいつの間にかすり替わっているということになる。将来、こういう過去体験のすり替えという商売が登場しそうである。もちろん、もう十年も前に映画シュワルツネッガー主演の「トータルリコール」(1990)をみて知っていることでもあろう。もうひとつベン・アフレック主演「ペイチェック−消された記憶」(2003)も似たような内容である。これは世間では詐欺と呼ばれそうだが、自分をだますことに関しては詐欺ということにはならない。あえていうなら「創造的なだまくらかし」といってもいいと思う。これが芸術家の仕事の本質でもあるからである。

 人間は生まれてきて、ずっと記憶の連続で成り立っている。鮮明な記憶もあれば、あやふやなはっきりしない記憶もある。コンピュータによる記憶はまちがいがないが、人間の場合はそうはいかない。つまり記憶は完全とはいかない。

 見えないものは見えない
 見えるものは見える
 見えるものを見ない(見るべきものを見ていない)
 見えているが、まったく別なものを見ている

 見たと思っているがなにも見ていない(ぼーっとしているときなど)
 見えないものは見ることができるか

 と、このように人間は見るという行為にいろいろ差異が生じるのである。
 人ははたしてほんとうに必要なものを見ているのかという問いが生じる。
 手品のトリックに人の目はいとも簡単にだまされてしまうところをみると見るという行為も保証できるほどたしかだとはいいがたくなる。いくら凝視していても簡単にトリックにだまされるくらいだから、見ているといってもたかがしれていると言わざるを得ない。
 ところで、人は毎日ふだん通りに行動している。この行動と動作はほとんど過去の記憶でつくられているといっても過言ではない。
 人の行動の元はどこにあるか、それは信念や信条、思想によってその人特有の行動の指針がある。そして、これらは経験、体験などから記憶の倉庫に保管される。人の行動は半分は過去の記憶で無意識に動作していて、なんの疑いも持たない。つまりオートマチックに動作しているのである。もし、ふだんとちがう変わったことがあれば、瞬時にして脳は過去のファイルから例を持ち出し、即応するのである。答えはすべての過去のファイルから引っ張り出される。もし、答えがなければ、そこではじめて脳が立ち止まってどう対処するか考えるのである。
 さきの話にもどるが、見えるものが見えていないということになると、そこにスコトーマが存在するということになる。どうやって自身の盲点を見つけるか、ということになると思うが、これが意外にむずかしい。
 見えないからこそ重要な事柄が、目の前で消えているということもできる。
 脳は検閲機能があり、重要な事柄を通過させ、脳の記憶の倉庫に保管し、一方、不要な事柄を遮断させて脳内から廃棄してしまうクセがある。結果的に見えているのに、見えていないという、うっかり現象が起きるのはこのためである。

 Scotoma「暗点」ギリシャ語
 もともとは目の病理学的意味において使用される名前である。視野のなかにぽっかりと暗点ができ、その中心が見えなくなる現象をいう。その暗点のために本来見えるものが見えなくなることをいう。ほ乳類の目は盲点と呼ばれる暗点があり、光受容器細胞のない場所に起こるといわれている。他人から見えても自身では気づかないことを心理学的比喩として用いられることがある。スコトーマ。

 ※たとえば、自分自身では気づかないが、他者からみて、変わったクセとして指摘されてはじめて本人が気づくということが往々にしてあるが、それを心理的スコトーマという言い方をする。つまり自身で気づかない盲点のこと。スポーツでいうとコーチがそれを指摘する。
 


参考文献
新星出版社「脳のしくみ」
ナツメ社「脳のすべてがわかる本」
成美堂出版「脳のしくみがわかる本」
 

4月25日(水) 天候 晴れ 時々 くもり

 「絶望の虚妄なるは希望の虚妄なるに等しい
 魯迅(ルーシュン)魯迅の短編(1955)「阿Q正伝・狂人日記、他」「魯迅評論集」(1981)竹内好訳、
 

4月26日(木) 天候 くもり  

 全集、現代文学の発見、第十三巻言語空間の探求学藝書林、
 初版は昭和44年、愛蔵版は51年、このシリーズは学生時代、数巻所蔵していたが、引っ越し時に散逸してしまった。編集に大岡昇平、平野謙、佐々木基一、埴谷雄高、花田清輝らによる当時としては画期的な選集と企画であった。この十三巻はおもに詩編を集めた作品で総括されている。
 
安西冬衛 軍艦茉莉
 北川冬彦 戦争
 竹中 郁  象牙海岸
 
西脇順三郎 Ambarvalia
 北園克衛 黒い火
 
瀧口修造 瀧口修造の詩的実験1927〜1937
 
三好達治 測量船
 丸山 薫  十年
 
宮沢賢治 春と修羅
 草野心平 蛙
 逸見猶吉 逸見猶吉詩集
 吉田一穂 海の聖母+故園の書+稗子伝+未來者
 
中原中也 山羊の歌+在りし日の歌
 富永太郎 富永太郎詩集(第一詩集)
 
金子光晴 鮫+女たちへのエレジー
 山之口貘 山之口貘詩集
 小熊秀雄 小熊秀雄詩集
 
小野十三郎 大阪
 村野四郎 実在の岸辺+抽象の城
 三好豊一朗 囚人+他
 田村隆一 四千の日と夜
 安東次男 欄(全)+他
 中村 稔 無言歌
 山本太郎 かるちえ・じやぽね
 
關根 弘 絵の宿題
 長谷川龍生 パウロウの鶴
 黒田喜夫 不安と遊撃
 谷川 雁 谷川 雁刺繍
 安西 均 花の店+美男
 會田綱雄 鹹湖+他
 石原吉朗 サンチョパンサの帰郷
 那珂太郎 音楽
 吉野 弘 消息+幻・方法
 川崎 洋 川崎洋詩集
 谷川俊太郎 21
 清岡卓行 氷った焔
 飯島耕一 他人の空
 大岡 信 記憶と現在
 岩田 宏 ショパン
 堀川正美 太平洋
 安永稔和 鳥
 藤富保男 正確な曖昧
 入澤康夫 幸せ それとも不幸せ
 天澤退二郎 時間錯誤
 塚本邦雄 装飾楽句
 岡井 隆 土地よ痛みを負え
 金子兜太 少年+半島
 高柳重信 罪因植民地
 加藤郁乎 球体感覚

 大岡 信 解説 「現代詩」の成立−「言語空間」論−

 言語空間という、まことにうまい文句をよく考え出したものだが、これにはわけがある。ふつう文章は、性質としてプロセスそのものである。プロセス、過程、つまり時間経過が必然である。小説は時間経過がバックボーンとしてみえないかもしれないが存在する。かたや詩は時間経過よりも絵画にちかいひとつの空間を提示することから、そのような呼び名がついたと考えるのが妥当だと感ずる。わかりやすくいうと、小説は流れる時間経過を伴い、詩は時間ではなくひとつの空間を表現するのだといってもいい。時間と空間の次元のちがいなのである。他にもある。時間がもとになっている芸術は音楽や映画がある。詩以外で空間を表現しているものとして絵画や彫刻がある。写真もそうである。カメラはいいかえれば時間を止める装置である。わたしの経験では詩を眺めるとき時間が止まり、小説を読むとき時間がはじまる、という経験。わたしは小さいときから時間が止まった世界が好きだった。詩とはつまり時間の固定化にほかならなかった。場所の固定化といってもいいかもしれない。時間はけっして止まったりはしないが、それをあえて止めてみたかった。その止めたいという意志が詩だったのである。幼いころ、わたしは海辺の海岸ちかくに住んでいた。庭の前にいつも海原がひろがっていた。夏になるときれいな透明なガラスコップに泡立つラムネを注ぐ。すると小さな無数の気泡がガラスのコップの底からたちのぼり、そこに夏空の真っ青な色と白色の雲があらわれる。その構図をいつも止めたいと希求したものである。しかも永久にとどめたいとせつにのぞんだりしたことが思い出される。その心象をぜひともピンで止めてみたかった。そこには歴然としたひとつの世界、詩の空間があったのである。

    三好達治 測量船から

       
甃のうへ

  
あわれ花びらながれ
  をみなごに花びらながれ
  をみなごしめやかに語らいあゆみ
  うららかの跫音空にながれ
  をりふしに瞳をあげて
  翳りなきみ寺の春をすぎゆくなり
  み寺の甍みどりにうるほひ
  廂々に

  風鐸のすがたしづかなれば
  ひとりなる
  わが身の影をあゆまする甃のうへ


 よく知られた詩だが、ここには叙情にささえられたひとつのの空間がみえる。この空間に飛び込みたいとこころが駆られる。そう思うときが詩の世界なのである。

 この詩の空白に当時の書き込みがある。
 「とぎすまされた冷たい知性、孤独、虚無的な背景」

 当時、わたしも熱が昂じていくつか詩をつらねたことがあるが、いま散逸してほとんど手元に残っていない。学生時代に秋の学園祭向けに書き下ろした短編もいまはもう見ることはないのである。唯一、1980年代後半、パソコン通信による史上初のオンライン同人誌「えふ・ぽえむ」NIFTY-Serve詩のフォーラムに寄稿した作品があるくらいである。当時、空間と時間とのあいだをどう折り合いをつけるか悩んだときの作品である。矛盾する2つの相反する世界をひとつにしたかったという思いで書き上げた作品である。このときメンバーの方の新風舎から千部限定で発行されたものだ。



 明珍昇
「近代詩の展開」(1967)
 学生時代の恩師の講義で使用したテキストである。
 はじめに
 近代詩の展開
 「新体詩から近代詩へ」
 象徴詩の流れ
 口語自由詩の流れ
 民衆派の役割と新興勢力
 「詩と持論」
 昭和の現実詩
 (付)安西冬衛・詩と背景
 昭和詩の主流と異端
 啄木における強さと弱さ
 ルポ・写実・比喩

 当時、クラスメートでガールフレンドのU子と恩師の明珍先生のところへ遊びにいったことがある。そのとき、応対に出てきた女性を見て驚いた。一級上のふだん物静かな人で先輩だったのである。ウワサでは先生と結婚したとのことだった。わたしに詩の影響をすこし与えた女性はこのときのU子である。U子はその前にリルケの詩をいくらか読んでいて、リルケの研究をしてみたいというと、恩師の明珍先生は表情を曇らせた。つまり、リルケのような詩人はそこらのお嬢さんが読んでわかるような詩ではないとさげすむような印象を受けたとのちにU子がぽつりと語ったことがある。つまり詩人とはどういう人間なのか、一般の人々といかに生活がかけはなれているか、誰も知らないとでもいうようだったという。翌年、晴れて卒業してU子は毎日新聞大阪本社直系の広告代理店に勤めた。一方はわたしはその本社でバイトの身だったのである。社内で一度だけ彼女と遭遇したことがあった。いまでもU子のことをリルケの詩とともに思い出すことがある。
 

 中原中也 みちこ
   汚れちまつた悲しみに……
 
 汚れちまつた悲しみに
 今日も小雪の降りかかる
 汚れちまつた悲しみに
 今日も風さへ吹きすぎる

 汚れちまつた悲しみは
 たとえば狐の革裘
 汚れちまつた悲しみは
 小雪のかかつてちぢこまる

 汚れちまつた悲しみは
 なにのぞむなくねがふなく
 汚れちまつた悲しみは
 倦怠のうちに死を夢む

 汚れちまつた悲しみに
 いたいたしくも怖氣づき
 汚れちまつた悲しみに
 なすところもなく日は暮れる……

 下宿先の隣の部屋の先輩が朗読してくれた歌である。この先輩は詩や小説、演劇好きで、演劇部の部長をしていて、後輩をしょっちゅう連れてきては詩の朗読会をしていた。彼は4年に上がるとき、東京の「十三人会」だったか「三十人会」だったかの劇団のオーディションを受けて上京してしまった。いよいよ引っ越しするとき、数年して芽が出なかったら、サラリーマンになる、もしくは田舎(島根)に帰るともいった。平凡な読書体験しかなかった当方に新しい風を与えてくれたように思う。まことに人は人によって変化を受けたり、また進歩したりすると思ったものである。

 金子光晴−ちくま日本文学全集(1991)
 
 やはり学生時代に出会った詩人である。たぶん、下宿先の隣の先輩の影響があったものと思われる。ひところ「絶望の精神史」(1965)をよく読んだ、金子光晴、70歳もう晩年にちかい頃の作品である。
 
4月27日(金) 天候 快晴
 Jaroslav Seifert『ヤロスラフ・サイフェルト』(1901-1986)1984年ノーベル文学賞、国内では数えるほどしか翻訳出版されていない数少ないチェコの詩人である。そのうちの一冊「ヴィーナスの腕」(1986)飯島周訳がいま手元にある。が、残念ながら、この詩人の持ち味である、とぎすまされた感性がある詩は見あたらず、たぶん、戦後の成熟期の詩編と思われる。落ち着いた思慮深い詩編で構成されているのは、午後、紅茶をのみながらビスケットでもほうばりながら読むような、やわらかいわかりやすい詩ばかりである。当方のサイフェルトに対するイメージはもっとラディカルで息をのむような緊張感のある詩である。たとえば、下の詩のような…

     窓から見たジープ山

こんなにも長く私は お前の姿を見なかった
ほんの今まで! 私はパイプを吹かす
窓の前には木の枝 五月だった
こんなにも長く私は お前の姿を見なかった

こんなにも長く 秋から
右には聖ビィートの塔 前には聖マルケータの塔
そして木の枝には花が
にわかに咲きはじめている
ああ 右には聖ビィートの塔
私は煙を 花と花のあいだに吐く

遠くを眺めてみた時
雲間にお前の姿が見えた
窓ガラスには滴が流れていた
そして遠くを眺めてみた時
私の頬にも 滴が流れた

このように今は すべてが感動的なのだ この山はなぜ
こんなにも長く
姿を隠していたのだろう?
私の家から左へ 歩いて数分のところに

−−このように今は すべてが感動的なのだ−−

詩人トマンが 住んでいる
このことにも人は たえず思いをいたす
人がすべてのことを思い
牢獄のことを考える時 塩がブドウ酒のなかに 落ちる


                           訳者 不詳

 この詩編は戦後の全集のなかの東欧の詩人の紹介にあったサイフェルトの詩のひとつである。もうひとつすぐれた詩編があったのだが、残念ながら失念してしまった。詩編に緊張感を感じたのは、おそらく詩人が戦時中レジスタンスとして地下にあった頃の作品のせいかもしれない。
 

4月28日(土) 天候 晴れ 夏日となる 

 岡庭昇「花田清輝と安部公房」第三文明社(1980)初版
 副題「アヴァンガルド文学の再生のために」とある。「夜の会」の人々−アヴァンガルド概論−戦後、昭和23年前後、花田清輝を中心に総合芸術の一環として結成された。そのメンバーは埴谷雄高、椎名麟三、岡本太郎、佐々木基一、野間宏などである。すこし遅れて安部公房、関根弘らが参加した。花田清輝39歳、安部は東大医学部を卒業したばかりで24歳であった。この二人の出会いがのちの安部の作品に方向付けがなされたといっても過言ではない。学生のとき読んだ「壁−S・カルマ氏の犯罪」はいままで読んだことのない斬新さとその表現の自由さもさることながら、いままで感じたことのない新しい文学を予見させるにじゅうぶんな実験的方法を用いた小説でもあった。当時、芥川賞の選考委員だった宇野浩二にものありげにみえてなにもない作品と評されたことは有名である。まだ自然主義文学の尾が残る時代にこのような小説が出たことがひとつのエポックであり、驚きであり、またもっとも突出した戦後文学のみごとな成果であった。「夜の会」の花田清輝から影響を受けた安部はのちの小説にもいかんなく花田理論を開花、発揮させた。昭和24年、月曜書房が創設した「アプレゲール文学賞」は1回目が島尾敏雄「出孤島」翌年、2回目は安部の「赤い繭」が決まった。島尾敏雄の作品には当時発表された「夢のなかの日常」というすぐれた短編の作品がある。リアリズムをふまえたアバンギャルドの手法をみごとに生かした作品だと思う。話を元にもどそう、花田清輝と岡本太郎が知り合ったのが昭和22年から23年ごろで、花田清輝、39歳である。フランス帰りの絵描き岡本太郎と意気投合した2人はすぐ「夜の会」を立ち上げることになる。花田清輝の影響を受けた安部は立て続けにシュールレアリズムとアバンギャルドの手法を駆使して、すぐれた短編を発表している。
 安部公房 年表
 無名詩集(1947)ガリ版刷
 粘土−粘土塀、のちに「終わりし道の標べに」(1948)昭和23年、処女作
 「牧草」
 「異端者の告発」
 「名もなき夜のために」
 「虚構」
 「薄明の彷徨」
 「デンドロカカリヤ」(1949)昭和24年
 「夢の逃亡」
 「唖むすめ」
 「赤い繭」(1950)昭和25年、戦後文学賞(アプレゲール文学賞)
 「壁−S・カルマ氏の犯罪」(1951)第25回芥川賞
 「バベルの塔の狸」
 「詩人の生涯」(1951)昭和26年
 「飢えた皮膚」(1952)昭和27年
 「ノアの箱舟」
 「水中都市」
 「鉄砲屋」
 「イソップの裁判」
 「闖入者」
 「少女と魚」(1953)昭和28年
 「飢餓同盟」(1954)昭和29年
 「犬」
 「死んだ娘が歌った」
 「どれい狩り・快速船・制服」戯曲
 「棒」(1955)昭和30年
 「R62号の発明」(1956)昭和31年
 「手段」
 「鍵」
 「けものたちは故郷をめざす」(1957)昭和32年
 「鏡と呼子」
 「夢の兵士」
 「誘惑者」
 「家」
 「鉛の卵」
 以上は、彼の戦後の十年の軌跡であり、雑誌に発表された短編その他作品である。
 前半はポーやリルケの影響が感じられるが、後半はカフカの影響が感じられる。またヤスパース、ベルグソン、ハイデッガーなど直接は感じられないが実存哲学をも通過する地点にあったようで、彼独自な作品群である。当方がさいしょに安部の作品に触れたのは学生(1969〜1970)のときで、たしか「終わりし道の標べに」(1948)だったように記憶している。読んだとき鮮烈な印象を受け、その記憶も生々しい。このとき、かの作品を書いた作者になみなみならぬ興味を持ったことを告白しなければならない。
 そのときまでの当方の読書体験はまことに常識的な範囲内でしかも貧弱であった。自然文学のなんの抵抗感もない「芥川龍之介」とか「夏目漱石」「太宰治」などであったのだから。
 戦後、どさくさの時期、花田清輝と出会って以降、彼の作風は一挙に前衛(アバンギャルド)の手法を応用したものに変わる。芸術の革命を指揮した理系の花田清輝の理論とその理論を惜しみなく実践し発揮したやはり理系の安部の組み合わせは想像以上の成果を出した。その起点が「デンドロカカリヤ」(1949)という記念碑的作品であり、当方もひじょうに好きな作品のひとつである。
 一方、芸術の革命を提唱した悪家老の異名をとる花田清輝は当時40歳代で、小説というよりほとんど評論やエッセーにちかいものを得意とし発表している。
 「地獄の周辺」(1948)昭和23年
 「仮面の表情」(1949)昭和24年
 「二つの世界」
 「カフカ小品集」(1950)昭和25年、翻訳
 「新日本文学」編集長
 「アヴァンギャルド芸術」(1954)昭和29年
 「モラリスト批判」(1956)昭和31年
 「乱世をいかに生きるか」(1957)昭和32年
 「大衆のエネルギー」
 花田清輝はどちらかといえば、小説とか作品を書いたりするというより、腕のきく編集者、もしくはオルガナイザーが適しているように経歴からついそう決めてしまいそうになる。部分と全体をみたとき、もし全体をみてしまった場合はもう部分にはなれないだろうと思ったりする。もちろんすぐれた方法論を駆使して文学の来るべき姿をかなたにおいて邁進していったことはまちがいない。つまり彼の場合、ものをみる視点がふつうより高い位置にあるのだ。それもかなり高いところに彼の視座があるように思えてならない。それは当時、フランス帰りの岡本太郎と意見が合い、そう、意気投合したことをみても明らかである。

 「解剖学教室へようこそ」養老孟司(2005)

 著者の養老孟司(1937-)は安部とは先輩後輩の間柄であるらしい。いつだったか、両者が対談をしたとき、安部が解剖実習を受け持ち、養老孟司が作家になった方が適しているというようなことをいっていた。当方の知り合いでちかくに住むI君は関東圏の山梨医大(山梨大学医学部2002年統合)へいった。数年後、帰省した彼から聞いたことは解剖実習があり、しばらく食事がのどを通らなかったということだったから解剖はかなりきつい実習らしい。


 
島尾敏雄−ちくま文学日本全集(1992)

 「夢のなかの日常」は当方が学生のとき読んだ、衝撃的で異質な短編だが、花田清輝らが創刊した「総合文化」(1948)に発表された作品である。雑誌、総合文化は翌年、廃刊の憂き目をみている。戦後、花田らが組織したのは、旧来の古くさい文学ではなく、新しい文学運動の展開だった。したがって、オルガナイザー花田清輝の視点は「夜の会」の参加メンバーをみるようにひと癖もふた癖もあるような連中がそろっている。いうなければ花田理論をもとに戦後のいちじるしいエネルギーを持った集団だといえる。そのなかに島尾敏雄も含まれていたのである。
 

4月29日(日) 天候 晴れ のち くもり

 「リルケの文学世界」塚越敏(昭和44年初版)
 当方が学生のときに読んだ「形象詩集」以来、なにかと心のよりどころとなった詩人である。リルケ(1875-1926)はカフカと同じプラハ出身である。カフカは生涯プラハを中心に生活をしたが、リルケは故郷のプラハを捨てて当時の大都市であったパリに出たのである。そこで書き連ねたのが「マルテの手記」(1910)である。この作品は実存主義の先駆的な役割を担ったといってもいい。当時、大阪市内から宝塚市内へ生活の場を移していたが、ポケットにしのばせていつでもどこでも読んだのは新潮文庫の大山定一訳(1973)のものである。いまでも忘れられないのは「
毎晩、おそくまで、いつも隅の窓の一つにあかりがとぼっていた。僕はずっと後になって初めてそれが誰の部屋だったかを知ることができた。あの夜ふけのランプはロダンの秘書をしていたリルケの部屋だったのだ。僕はすでに世のなかを知りつくしたつもりでいた。そして、無知な、僭越な、くだらぬ青春の日をすごしていた。名声が僕をそこないはじめていたのだ。僕は無名や失意よりもなお始末のわるい名声がある一方に、すべての名声よりいっそう偉大な失意の時代があることを知らなかった。リルケのとおい友情がこの夜ふけのわびしいランプの光をとおして、他日どのようななぐさめを与えてくれるか、まだ僕はすこしも気づかずにいた」パリで同じアパルトマンに住み、名声の絶頂期にあったジャン・コクトー(おもいでの人々)の弁である。昭和24年ごろ、安部はこの「マルテの手記」を彷彿とさせる、彼自身のマルテの体験「名もなき夜のために」を書いた。この作品に、こころに印が残るほどの深い淵の底のようなほんとうの孤独がどんなものであるかを教えられたように思う。まことに文学でしか体験し得ない、わたし自身のまた「孤独の世界」でもあった。
 リルケの初期の「形象詩集」は1899年〜1901年、リルケ24歳〜26歳で、ベルリンに滞在したときに作られたらしい。原詩はとうぜんドイツ語となる。

 「リルケ詩集」富士川英郎訳(昭和38年)

 「形象詩集」(1902-1906)から
 学生時代よく読んだリルケの詩である。
 

                 或る四月から

    ふたたび森が薫る
   ただよいのぼる雲雀の群れは
 われわれの肩に重かった空を引きあげ
 木の枝を透かしてはまだ虚ろな日が見られたのに−
  永い雨の午後ののち
   金色の日に照らされた
    新しい時がよみがえる
 それを恐れて逃げながら 遠い家々の前面で
    すべての傷ついた窓が
 小心にその扉をはためかす
 
 それからあたりはひっそりとして 雨さえいっそうかすかに
 静かに暮れてゆく岩の光に降りそそぎ
 すべての物音は若枝の
 輝く蕾のなかへもぐりこむ


                    隣人

 見知らぬヴィオロンよ お前は私を追っているのか?
 どんなに多くの遠い都会で 既に
 お前の孤独な夜が私の夜に語ったろう?
 何百という人がお前を奏でているのか? それともそれはただの一人か?
 
  あらゆる大都会には
 お前がなくては もう流れのなかに失せそうな
 そんな人々が住んでいるのか?
 だが なぜいつもそれが私に出会うのだろう?
 
 なぜ いつも私は
 人の世はあらゆる物の重みより重いと
 おびえながら 強いてお前に歌わせ
 言わせる人々の隣人となるのだろうか?


                     嘆き

 おお なんとすべては遠く
 もうとっくに過ぎ去っていることだろう?
 私は思う 私がいまその輝きを受けとっている
 星は何千年も前に消えてしまったのだと
 私は思う 漕ぎ去っていった
 ボートのなかで
 なにか不安な言葉がささやかれるのを聞いたと
 家の中で時計が
 鳴った……
 それはどの家だったろう?……
 私は自分のこの心から
 大きな空の下へ出ていきたい
 私は祈りたい
 すべての星のうちのひとつは
 まだほんとうに存在するに違いない
 私は思う たぶん私は知っているのだと
 どの星が孤りで
 生きつづけてきたかを−
 どの星が白い都市のように
 大空の光のはてに立っているかを……


                      孤独

 孤独は雨のようなものだ
 夕ぐれに向って 大海からのぼる
 遠い はるかな平野から
 孤独は天へのぼって いつもそこにいる
 そして天から初めて街のうえに降る

 昼夜の隙間に雨と降り
 すべての巷が暁へ向うとき
 また なにも見出さなかった二つの肉体が
 失望して 悲しげに離れるとき
 そしてたがいに憎みあうふたりが
 仕方なく同じベッドに寝るとき

 そのとき孤独は銀河とともにながれてゆく……

  
                      秋の日

 主よ 秋です 夏は偉大でした
 あなたの陰影を日時計のうえに置き下さい
 そして平野に風をお放ち下さい

 最後の果実にみちることを命じ
 彼等になお二日ばかり 南国の日ざしをお与え下さい
 彼等をうながして円熟させ 最後の
 甘い汁を重たい葡萄の房にお入れ下さい

 いま 家のない者は もはや家を建てることはありません
 いま 孤りでいる者は 永く孤独にとどまるでしょう
 夜も眠られず 書を読み 長い手紙を書くでしょう
 そして並木道を あちらこちら
 落ち着きなくさまよっているでしょう 落葉が舞い散るときに

4月30日(月) 天候 一時雨、のち くもり

 戦後文学の終わりと新しい文学のはじまり…