思い出すことなど
 その昔、1970年代のはじめ、わたしは心機一転、環境を変えたいという想いがつのり、思い切って大阪市内(西淀川区姫島)から宝塚市内へ引っ越しをした。引っ越し先は、阪急宝塚沿線、終点の宝塚駅手前2つ目の駅である。逆瀬川駅から北へ歩いて数分の閑静な住宅地だった。ある未亡人が住む広大な敷地と建物の一室を借りて住んだ。あたりの静かな環境は申し分なかったが、それがかえって逆にわたしの心に刺激が必要だとささやいた。いつも利用する駅の前に人の出入りが目立つ楽器店があり、そこで思いついたとき、気に入ったLPレコードをよく買ったりした。再生機器は当時もっとも廉価な専門メーカーのセパレート式ステレオ装置だった。あるとき、夜中、なにげなく、FM放送を聴いていたとき、あるピアノ曲が流れた。聴きだしてすぐ電流が脳の皮膜を覆うようになにかゾクっとするようなかつてない刺激を受けた。その気迫せまる演奏に驚嘆し、すぐさまわたしにひとつの決心をさせた。そう、わたしもこのようにピアノ演奏をしたい、ピアノを弾いてみたいという欲望が生まれたのだ。数日後、駅前の楽器店にいき、ピアノのレッスンを申し込んだ。入会金、月々の月謝などあわせても、それほど苦になる額ではなかった。毎週、土曜日の夕方から毎回1時間半ほどのレッスンを受けた。楽器店の2階にレッスンを受ける部屋があり、その一室にヤマハの初心者用のアップライトピアノがあった。型式はヤマハのU1Hでシリーズ最下位のモデルだった。
 申し込んだ後、楽器店の奥さんからレッスンついて説明を受けて、わたしの先生は神戸大の教育学部、音楽科に席をおいたきれいなK先生だとそのとき伝えられた。たしかに初対面ときの印象はきれいな方でわたしより2歳もしくは3歳年下だった。初心者がかならず通過するというバイエルもわたしは経験した。先生にはとくにBachの曲を勉強したいと自分の気持ちを申し出て、初心者用のバッハの曲のテキストを紹介してもらった。先生は、ではバッハでいきましょうと気持ちよくこたえてもらった。その年も押し迫った頃、日頃の練習の成果を示そうと発表会が催されることになり、わたしはハッハのプレリュードを曲目に選んだ。習い始めて半年少々で、めきめき腕を上げたせいか、偶然、店に来ていたフルートの権威といわれた山越先生にピアニストになるつもりかと冗談とも本気ともつかぬことをいわれた。そのとき、ピアニストで有名な小林さんは18歳から練習をはじめて本物のピアニストになった。だからあなたも本気なら不可能なことではないともいわれた。そういうこともあって、わたしはもっとグレードの高いピアノを買うことを本気で考えていた。できればグランド・ピアノの中級程度のヤマハのC7ぐらいを念頭に入れていた。問題は住まいではなく、ピアノだった。借家住まいでピアノという騒音を出す楽器をはたして置かせてくれる家主がいるのかということだった。半信半疑だったが、逆瀬川の中州の下に地元でも有名な地主の方がおられて相談すると快い返事をもらった。当時、ピアノといえば、最高峰はスタインウェイで、アメリカ製よりもハンブルク製のほうが評価は高かった。もしくはベーゼンドルファとかベヒシュタイン、その他、チッカリングなど世界的なメーカーはまだ健在だった。
 いつだったか、店の2階でいつものようにK先生のレッスンを終えて下に降りると見慣れぬ異国人が二人いた。よくみると覚えがある。といっても過去に出会ったということではない。レコードジャケットかなにかで出会ったというような。1人はフランスのフルートの世界的奏者、ピエール・ランパルさんだった。もうひとりは弟子にあたるマクサンス・ラリューさんであった。そのとき、山越先生が記念撮影をしょうということになり、わたしもいっしょに世界的なフルティーストたちとアングルのなかにおさまった。山越先生がカメラのシャッターを数回押して、みんな笑顔で、また少々得意げな表情でおさまったものである。しかし、その記念的な写真もいくら日にちがたっても山越先生から渡されることはなかった。

逆瀬川時代

 1972年(昭和47年)から1976年(昭和51年)までわたしは一見のどかに感じられる阪急沿線、西宮北口駅から宝塚駅までの区間にある終点2つ手前の逆瀬川駅周辺で足かけ4年間暮らした。ふだんは生活費を稼ぐためにアルバイトに精を出し、自分の時間は読書して過ごし、またクラシック音楽を聴き、毎日、2時間以上ピアノの練習をしたりした。その間、職業を転々として下宿を三度変えた。大阪の新日本文学とかに一応席をおいて創作を仕上げる計画だったが、まったく書けなかった。当時はワープロなどあるわけではなく、文具店で原稿用紙400字詰めを適当枚数を買ってきては、書いては破りの繰り返しだった。とにかく最初の1行がまったく出てこないどころか、創作のネタらしい想像力もさっぱり働かなかった。

 おそらく、苦労して書くという行為よりも読む方がずっと楽しかったからにほかならない。あるいは書くより読む方がずっと気持ちよかったという読書癖のせいかもしれない。

 月曜日から土曜日まで、阪急電車で西宮北口までいき、そこで梅田駅行きに乗り換えて、梅田から堂島地下街を歩いて毎日新聞大阪本社へ通った。朝9時出社で、退社するのはだいたい決まって午後6時頃だった。バイト仲間に2級上の京都の大学、建築科を出たSさんと化学出身のYさんがいた。時々、帰り、いっしよに喫茶店にいき、おしゃべりしたり、夕飯をいっしょに食べたりした。とくにYさんは親しく付き合い、住吉区の実家、散髪屋だった、へいつも押しかけていくほどだった。Yさんには2つ下の弟さんがいて、家業を継いでいた。

ショップ時代