創作の周辺

創作のプロセスをさぐる試み

 創作の周辺ということで、創作に関すること、思いついたことを適選書いていきたいと思う。創作しょうとする者はたいてい創作用のノートを用意しているはずである。当方にも創作ノートは何冊かそれ以上あるが、別に種明かしすることが目的ではないので、あくまで創作上の補助的な助けとなるようなアイデアが生まれるといいと思ったしだいなのである。
 文章を書くという行為は感情や理性、精神の、脳の活動の一部なので、脳の働きについて知っておくことが多少とも役立つのではないかと思う。よくいわれているように脳に右脳左脳理論を持ち込んだのは1981年角田忠信教授の「右脳と左脳−その機能と分化の異質性」によるところが大きい。当時は博士は音の知覚が日本人と西欧人ではとらえ方が違うのだということから出発した。したがって現在の脳の働きの解説とは少々異なっている。それ以降、脳の働きについては大脳生理学の研究成果が発表されて現在ではある程度その働きの違いについて常識化され、誰でも右脳と左脳の働きの違いくらいは知っているところとなった。肝心なことはこれをうまく利用するということなのだろう。そこで、当方も創作する傍ら、この創作を手助けする必要性を感じて自分なりに脳の左右の活動についてわかりやすく整理してみた。
 脳、2つの脳について、右半球と左半球との違いついてまとめてみると、まず右脳は直感を司るイメージが主となる。左脳は文章など理屈、論理的なとらえ方をする。人はなにかを見たとき、イメージ、つまり直感、右脳で対象の全体をとらえるのである。そして、左脳がそのイメージを論理的に解釈しなおして、この場合デジタル的に整理し記憶もしくは発信する働きをすると考えてよい。右脳はアナログ入力用で左脳はデジタル出力用ということになる。つまり、アナログ(右脳)で捉えてデジタル(左脳)に変換して脳の記憶に納めるというのが一連の脳の処理課程となるのである。右脳と左脳の間に脳梁があり両脳のインターフェースの役割をしているのである。
 たとえば、小説を読むというのは、左脳のシーケンシャル的機能で言葉、文章を追いかけ、右脳がその文章、言葉をイメージに変換するのである。文章→映像イメージとなる。逆に物語を表現するということになると、作者の右脳に物語のイメージがあり、それはもちろんアナログ的なイメージだが、それを言葉、文章、つまりデジタルに置き換える作業が必要となる。この作業が脳梁インタフェースによりうまくいけば、物語はおもしろいという結果となる。右脳が点とするなら、左脳は線である。この脳の2つの機能がうまく連動すれば織物を編むようにひとつの総合的な面ができあがる。
 誰でも経験があると思うが、なぜ「夢」は文章に変換しにくいか?当方の独断だが、夢を見ているとき、脳の働きは右脳に偏り、イメージだけが勝手に活動しているという状況なのではあるまいか。つまり左脳と断絶しているため、イメージだけが独立して起きる現象ではないかとみているのである。右脳は意識の検閲を受けにくいのであり、人の行動を規範を規制しているのは左脳の役割だということがわかるのである。つまり眠っているとき、左脳は睡眠とともに休憩しているわけで、規制が解除されている状態なのだ。規制を受けない右脳は思う存分、規制やぶりをしてイメージが暴走することになる。そこから夢はまったく本人の知らない物語を紡ぎ出すというわけなのである。目覚めているときは左脳が右脳を管理しているのだが、いったん睡眠に入ると主従の立場が逆となるのだ。

日記について

 書き物をする上でもっとも修行となるのが日記を記すことである、と昔からエライ先生が口癖のようにいったものだ。日記は要領よく簡単に記すのが特徴だから、文章の作法にもってこいと言われるのかもしれない。毎日逃すことなく日記を10年もしたためられたら作家になれるなどとほんとうかウソかわからないようなことを当の作家たちがさも平然と言っているのを聞くと、じゃオレも毎日日記を記そうとその気になるのだろう。かくいう当方もウェブ上で日記をもうかれこれ10年以上続行している。まさに文章の修行僧とかわらないわけである。

 作家たちの日記を読むのは好きな方だが、それはたぶんに下ネタ好きの性分から来ているのかもしれない。作家たちの日記に人一倍熱心になるのは、そこに創作のネタがころがっていないかというゲスな好奇心のせいである。しかし、さすがは作家たちで、創作のネタを日記などでばらしてしまうほど間抜けではない。作家にとってネタはいうなれば企業秘密の持ち出し厳禁の取り扱い注意品目なのである。また日記だからといってそれがほんとうのことかどうか、じつはわからないところがおもしろいのだ。作家たちはみな百戦錬磨の一筋縄ではどうにもならないくせ者ばかりである。そう簡単に本当のことを書くとはとうてい思えないのである。もともと表現自体が創作の範疇に入ることでもあるし、真実を書こうが、はたまたウソを書こうが、それは作家の書くという行為の姿勢の問題となる。誠実な作家ならできるだけほんとうのことを書くだろうし、茶目っ気のある作家なら、読者をうまく手玉にとってウソの日記でその気にさせてしまうということもあり得るだろう。いずれにしても油断は禁物である。
 確かに作家たちの日記を読むとなかなかおもしろい。作品が厚化粧した顔に例えるなら、日記はすっぴんの顔とでもいったらいいような、作家の本音が見え隠れする。だいたい日記はもともと気取って書いたりはしないものだ。日頃の出来事のなかから差し障りのない事柄をかいつまんで書いたものがほとんどである。ということは日頃の生活習慣のような性癖が出たりすることもほんとうだろうと思われる。しかし、これらの出来事は作家がこしらえた作品とはなんの関係もないものだ。そして日記には日記の独立した日記文学とでもいえる世界があるのだ。日記がすっぴんだからといって地顔が見えたと甘くみてはいけない。すっぴんにはすっぴんの表現方法がいくらでもあるのだから。
 作家の日記例…五味康祐、昭和41年8月号(小説新潮2008年4月)
 ×日
 前日来の原稿、一向にはかどらず。締切とっくに過ぎている。髪を掻きむしり苦しむも書けず。俺はもう駄目か。
 ×日
 夕方五時、ようやく擱筆(かくひつ)、45枚。ふらふら。毎日新聞のYさん、書き上がったところへ来訪。晩餐に誘われる。辞退したがマアマアと言う。ひと風呂あび七時過ぎロビーへ降りる。前日来の徹夜にて意識もうろうたり。紙問屋の社長氏同行。赤坂の料亭。美妓はべる。…中略… 十時すぎホテルに戻る。死んだように眠る。この虚しさよ。
 この日記を読んで痛く感動した。創作するというのはたいへんな努力を必要するものだと感心したのである。

文章表現の可能性

リアリティについて

シュールレアリスムについて

弁証法について

アバンギャルドの方法

イメージの世界