物語

夢のつづき…「夢の続き…」

ぼくは、いつも出発する夢をみている。 しかし、いまだかつて出発したことはない。
目覚めの悪い夢は、ぼくをきまって、ひどくみじめにする。
軒下の雨だれの音で目を覚まして、しばらくぼーっとする。
考えることすべてが、昨夜からの続きなのだ。これは、たぶん、よほど悪い夢の続きに違いない。
そう思ったとしても、無理なことではない。日々は恐ろしいほど単調にしか、過ぎていかないものだ。
昨日と今日が、どう、違うのだ。どれほど、人間らしい生き方に進歩したというのだ。
たぶん、ぼくでなくとも、、答えられる者はいないのかもしれない。
しかし、なぜ、ぼくはこんな生活に焦りを感じているのだろう。もちろん、生活するだけなら、いまのままでも、もうしぶんないはずだ。
文句を言えば、それは贅沢といわれるかもしれない。ぼくが、いつも、孤独でいるといっても、このネットには、いろいろな人たちがいるのだから。ぼくだって、このネットの読者であり、また作者なのだ。
孤独でいるというのも、考えてみれば、別に悪くないかもしれない。孤独なだけ、ぼくは、いつも、よけいに夢をみてしまうからだ。
たとえば、「ことば」のからみあった世界へ旅に出ることもある。「ことば」の中の旅は、また、寝返りを打ったりするときなど、よじった背中の痛みになったりすることがある。
いつも、複雑なことばに追いかけられているような差し迫ってくる「ことば」の群れ。よくみると、どの「ことば」にも、特別な表情があるのがわかる。
その中で、ぼくは、ひとつのことばだけを追いかけているらしいのだ。それはいったいどんな「ことば」なのだろう。
「ことば」がことばについて語る日がいつかくると、どこかの書物の中にあったっけほんとうの「ことば」には、やはり、特殊な表情があるはずなのだ。
もちろん、詩のことばにも、特別に選ばれた「ことば」でなければならないだろう。表情のある「ことば」をぼくは、やっきになって探しているみたいなのだ。
現実の生活よりも、夢の中のほうが、もっと現実味がある夢だってあるのだ。
そんな夢をみたりすると、生きているのが、ほんとうにつらくなる。サラ金の借金に追いかけられたりするより、空間がねじれたような夢のほうが、よっぽど薄気味わるいものだ。
ぼくが、たえず不眠症に悩まされていることと、こうした悪い夢と、なんらかのつながりが多少でもあるのかもしれない。
たとえば、こんな夢はどうだろう。
詩が、誰もいないところで、こんな歌をうたうんだ。
「詩を、ひとつ作ろうなんていわないでください。詩とは、望むものではなく、水瓶から、水が自然にあふれるように、おしくもこぼれ落ちるものなのです。そのしずくの、一滴か二滴が、あなたの心の中で蒸発して、むせるウイスキーのように十万するものなのです。だから、詩は、あなたの中で、胸をかきむしるほど、せつなく息苦しい「ことば」となりえるのです。」
詩が勝手にそんなことを語ったりするのをみるのは、ぼくはなんともうすら寒いのだ。もう、二、三枚フトンを重ねて、もう一度眠りなおすか、フトンからはね起きて、どこでもいいから、とにかく逃げ出したい衝動にかられてしまうのだ。
それでも、ぼくは意気地なしだから、逃げだしたりもせず、軒下の雨音をぼんやり数えてみたりしている。
そして、相変わらず、フトンの中にいる。
そう、きょうは雨なんだ。誰かが、わぁわぁ泣いているのだろうか。悲しいから、泣いているのではなく、そんなふうに泣いているのが悲しいのかもしれない。
まだまだ、ぼくの不眠症は治りそうにない。
「書くことについて」
ドアをノックする音がしたように思った。
とっさに、なんとか返事をしなければならないと声を出しかけたのだったが、誰が起きあがればよいのか、わからなかった。
自分の体が、どこにいったのかわからず、さがしている自分がもう一人いることに気づいて、あっと驚いてしまう。なんだか、ちぐはぐな感じがしてならない。
これも一種の夢のなかにいる感覚なのだろうか。するとぼくは、まだ夢の中?
それにしては、ノックの音が耳のすぐそばで、鮮やかに聞こえたみたいだった。
いつの間にやら、うとうとしていたらしい。しばらく耳鳴りがあり、やっと自分が誰なのかわかった。おかしな話だが、自分だとわかって、ほっとせずにはいられなかった。しかし、いまがいつなのか、時間がさっぱりわからない。ぼくは、夕べから窓に雨戸をおろしてしまっていたらしい。だから、この部屋は真っ暗なのだ。
目覚まし時計に手を伸ばしてみるが、なにやらおかしい。よくみると、時計の針が、あくびをしたときのように、腕がのびたままの恰好で殿ってしまっている。どおりで静かなはずなのだ。
と、ふたたびノックの音。あわただしく耳を打つ。こんどは確かに本物の音のようだ。Kさん、いるんでしょう?わかっているんです。新聞代の集金に来たんです。いいかげんに払って下さいよ…と哀願するような人の声。
どうしたわけか、のどにつかえて返事ができず、それでもなんとか、紙切れに「いくらですか?」と書いて、ドアの下の隙間から押し出してみる。
ややあって、なにやら、ぶつぶつ不平をいう声がして、さっきの紙切れが戻ってきた。滞納分の催促だった。無理もない、新聞だって、ろくすっぽ読んでなんかいないのだ。部屋の隅に積み上げたままなのだ。
それから廊下のきしむ音。そして、また静かになった。、たぶん、まだ昼間なのだろう。こんな生活をしていると、別に時計なんかなくても昼か夜かぐらいはわかるようになるものなのだ。
むろん、区別がついたところでなんの解決にもならないことぐらい百も承知でいるのだ。
ただ、いまはこの部屋の壁に包んでもらいたいだけなのだ。一歩部屋を出ると、いやでも体全体が生傷のようにヒリヒリ感じられてくるからなのだ。
あれ以来、窓のそばには近づかないようになってしまった。あのガラスの向こうのネオンの世界は、ぼくをいっそう孤独にするだけにしかならないのだから。
ぼくは、自分のしなければならないことを順序よく考えてみる。去年、ぼくは、人間は、もっと進歩する必要があると思っていた。いざ一年間が過ぎ去ってみると、やはり、ぼくだけが取り残されていたというわけだ。
時代だけの進歩なんて、どうでもいいけど、くそくらえなのだ。
進歩した道具にだけ囲まれている人間なんて、醜悪なだけではないだろうか。
それは、いったい誰のための道具?
なんのための道具?
便利になったね…とつぶやいて、ほかのことは何も感じない人間なの?みんなそんな人間になりたいの?
ぼくは大切なものを、道端のどこかに忘れてきたように思えてならないのだ。むろん、落とした場所さえわかれば解決策もあるのだろうが、かといって、いまさら辿ってきた道を戻るわけにもいかない。しかし、どこかで進路修正をしないと、あとでもっとひどい目にあわされるのではないかと不安になって仕方がないのだ。
だから、けっきょく、こうして書くはめになったのだろう。けれど、けっして気休めで書いているつもりはないのだが。
できれば、ほんとうのことを書いてみたいという誘惑を禁じえないでいる。しかし、世間にほんとうのことがあるとは、どうしても、ぼくには信じられないのだ。
ほんとうのことというのは、書かれることではなく、たぶん、そう感じたり信じたりすることによって起こる心の心象なのではないだろうか。
だから、真実は書いた人間と、それを読んだ人間との心のつながりができて初めて本当ののことになるのかも知れない。
たとえば、リリケの詩が仮にも「神」に届けようとした詩ならば、ぼくは日々を、自分の傷口だけをなめながら無為の暮らしをつづけていったことだろう。
あるいは、ベートーヴエンの数あるシンフォニーが「神」にだけ捧げられたのならば、ぼくは耳に粘土をつめこんでつんぼになって、その旋律を耐えただろう。
街のきらびやかな書店にいくと、真実が書かれた本がいっぱいあるはずなのに、ぼくたちの生活は、そうした生活とは、ほど遠いくらいの相違があるのをどういうふうに理解すればいいのだろう。
やはり、真実なんて「ことば」なんかにはならないのだろうか。
ぼくも、本当のことを書いてみたいとといいながら、もうすでに嘘をつきはじめているのだろうか。
また、ぼくのペンをもつ手が止まってしまった。
「ぼくは歩く…」
ぼくはゆっくり立ち止まる。そしてまた、ふたたび歩き始める。
午後の公園は閑散としている。まるで平日こそがぼくたちの日曜日なのだ、と語りでもするように。まるで沈黙のなかに、もうひとつの巨大な音が頭蓋骨のなかで鳴り響いてでもいるような、そんな恐ろしいほどの静けさがあることをぼくは長い間知らずにいた。
ぼくは公園のなかの木を一本一本ていねいに見て歩く。木の幹のかさぶたのような表面のザラついた手ざわりをしっかり心に留める。おまえは去年もこんなザラついた皮膚をしていたね。わけもなく、声がついて出る。風もないのに、震えているようなひとつひとつの葉に遠い郷愁を感じないわけにはいかないのだ。
一枚のゆれている木の葉が、これほどいじらしく感じられたことはなかった。とめどなく宇宙から降り注ぐ霜を浴びて、おまえは、ただひたすら成長を待っているとでもいうのだろうか。大きくなったら、おまえは、いったい何になる?それとも、誰のためでもなく、ただ自然に耐えてこきざみにゆらいでいるだけのことなのか。ぼくのためでもなく、また、おまえのためでもなく……もっと大きな存在のために……
葉がゆれるたびに、遠くにある池の水面が驚いたように、一瞬まばゆく輝いた。ぼくに合図を送ってくれているつもりなのだろうか。もし合図だとしたら、どんな合図なのだろう?それは、もうひとつの故郷からの合図なのだろうか。
ぼくがしょっちゅう独りでいることとなんらかの関係があるのだろうか。そう、それは暗号のようだった。人は生まれてきて、必ず何者かにならなければならないように、果たさなければならない仕事があるものなのだ。しかし、いったい、ぼくに、この人生という舞台の上にとせんな役があるというのだ。
できればぼくは、何者でもありたくないのだ。ただの人間として、社会の隅で、ほこりや灰のように目だたなくひっそりと生きていきたいだけなのだ。名前だって、もう返せるものなら返したっていい。人々から呼ばれるだけの名前なら、ぼくの名前はなくてもいい。サラリーマンなんかにはなりたくない。命ぜられた仕事しかこなさない人間にはなりたくないものだ。他人の片棒なんか担ぐのは、こんりんざい断りだ。
そう、ぼくに仕事はない。
ぼくは、いつもが日曜日なのだ。しかし、それは遊園地や公園で、子供たちや恋人たち、あるいは、また様々な家族がオレンジ色の声に包まれて、はしゃぐための休日ではない。
ぼくの休日は、閉じられたまま放置されている手紙のようなもの。はたまた、えんえんと続く美術館の冷たい回廊。あるいは、書棚に並べられた決して読まれることのない書物。解体屋に投げだされたままのハンドルやタイヤのない廃車。降りしきる雨がクルマの死体をなぐさめる。
ぼくがわけもなく安心できるのは雨の日だけだ。
(1989年同人誌「えふ・ぽえむ」から)